第13回 雫石事故、真の被告は誰か 航空自衛隊幹部からの手紙

 1971年、岩手県雫石の上空で、全日空の旅客機と航空自衛隊の戦闘機が衝突した事故。その刑事裁判の一審判決が言い渡された75年3月、鍛治壮一は見知らぬ戦闘航空団副司令からの手紙を受け取った。衝突機に乗っていた空自の訓練生と、編隊を組んで指導していた教官の2人が有罪となった判決。その判決の日の夕刊1面に載った解説への切々たる思いを訴える手紙だった。

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1975年3月11日夕刊1面

1975年3月11日夕刊1面
本当の被告はだれか 航空路再編を放置 防衛庁運輸省 背を向ける
 雫石判決は二人の自衛隊パイロットを有罪とした。ホッとした表情をみせる全日空と対照的に「上官の命令に従った市川訓練生だけは無罪にしてほしかった」と防衛庁幹部は深刻である。だが、百六十二人の死を招いた惨事は、起こるべくして起きた。この取材を通じ、事故直前、空中衝突の危機が次々と叫ばれ、またその声が無視されていった事実を見てきた。法廷は、主に二人の戦闘機乗りの被告の責任をめぐって展開され、この事故の背景、本当の責任者を裁くことはできなかった。この裁判の被告席に座るべき者は、だれだったのか。
 雫石の大惨事は予知されていた--。“空中衝突の危機が迫っている”と叫んでいたのは、ほかならぬ航空自衛隊だった。
 事故の起こる五ヶ月前、航空幕僚幹部(空幕)は「飛行安全監察関連報告」という分厚い報告書をまとめた。ニアミス(航空機同士の異常接近)と空中衝突の可能性、防止策のすべてである。このため航空自衛隊は、その前年六ヶ月をかけて、空中衝突防止の特別監察を行った。このとき、全パイロット約千二百人からアンケートをとったところ、「ニアミスでヒヤっとした経験」は、なんと三百七十七件にのぼり、毎年急増していることがわかった。
 そこで「航空路を飛んでいる民間機と、訓練空域へ出入りするため航空路を横断する自衛隊機との間に異常接近や空中衝突事故発生の公算が増大しているので……抜本的に航空路の再編成が必要である」と指摘し、航空自衛隊の内部規制を強化するとともに、民間航空を含む日本の空の問題として①航空路、訓練空域の再検討②ニアミス防止のため地上レーダーで全空域のコントロール、などを提案した。
 この“緊急告知”は、空幕長が当時中曽根防衛庁長官に詳しく説明、一刻も早く運輸省と折衝するよう訴えている。
 さらにその前年(四十五年)九月、総理大臣も出席し、防衛庁で開かれる高級幹部会合で、西武航空方面隊司令官が“空中衝突は時間の問題だ”と有田長官に報告している。制服の最高スタッフが年一回、当面する問題を長官らシビリアンに進言する場であった。
 これら“緊急事態”を予告する報告に、防衛庁の長官以下幹部はどれほど真剣に取り組んだろうか。政府は何をしたか。--防衛庁運輸省の話し合いは実を結ばなかった。具体的には何もしなかったのである。
 政治や行政の責任回避は、そのまま裁判の中に持ち込まれた(被告は防衛庁でなく、二人の自衛隊員個人だったが)。
 争点は「ジェットルートの保護空域にF86F戦闘機が入った」「運輸省航空局は当時、ジェットルートに幅があると、防衛庁に正式にいってきていない」「いや、反対に全日空機の方が訓練空域を飛んでいたんだ」……。法廷の駆引きは、それも当然だろう。しかし、事故の背景は別のところにある。そして、それは未だ完全には解決されていない。旅客機の運航と戦闘機の飛行は全く異質である。
 事故は編隊飛行中に起きた。現代の空中戦は編隊が基本になるから訓練の重要な課目だ。訓練生に能力のギリギリまで要求するだけでなく、上官(編隊長)に対して絶対服従と信頼感を植え付けるのが目的(「操縦教範」)。接触した市川二曹は、フルイド・フォア(機動隊形=編隊の陣形の一つ)の編隊訓練中だ。敵機を発見したら直ちに応戦できるようお互いにカバーしながら飛ぶ。編隊長機の動きにつれ、市川機は右、左と常に位置と高度を変えながらついて行かなければならない。
 市川二曹には、もう一つ過酷な条件があった。航空自衛隊パイロットの訓練システムは民間航空よりはるかにきびしい。飛行のたびに教官が評価表に採点する。離陸、旋回、編隊飛行などの項目に分かれ飛行中に操作の手順を間違えたりすると不合格を記入する。もし同じ項目を二度重ねると“進歩なし”とされ、別の教官がもう一回テスト。そのあと、パイロット訓練生をクビにするかどうか判定される。
 かくて、市川二曹は難関をいくつか超え、最後の戦闘機操縦コースまできたが、事故当日、二度のミスでパイロットとしての正念場に追い込まれていた。つまり、市川二曹はただひたすら編隊長機を見失うまいと操縦に夢中だった。
 空は安全になったか。もう空中衝突の危険はなくなったか--。訓練空域は航空路から完全に分離され、ジェットルートの中心から片側を少なくとも十マイル離れている。低高度九ヶ所、高高度十一ヶ所が主に海上に設定され、基地から訓練空域への往復は一本ずつの回廊で結ばれている。
 この細い回廊や訓練空域を訓練に夢中になった自衛隊機が逸脱する可能性はないだろうか。空幕幹部は「下のレーダーサイトから訓練機を監視し、少しでも逸脱しそうになれば警告しているから絶対大丈夫だ」という。このレーダーは事故前からあった。使っていなかっただけ。
 事故をきっかけに、運輸省は航空監視レーダーの整備計画を立て、航空法の一部改正案で、“パイロットの見張り義務”を明文化するはずだったが、いまだに日本の空は“穴だらけ”だし、法改正も日の目を見ていない。
 事故の前、空中衝突の危険を指摘した声を無視した“政治”、いつも事故が起こるまで動き出さない航空行政、背を向け合った防衛庁運輸省のナワバリ意識こそ、裁判の被告席で糾弾されるべきである。(編集専門委員・鍛治壮一)

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解説 本当の被告は誰か

続・書けなかったこと 書きたいこと 第13回 雫石裁判の波乱万丈--真実を求めて
鍛治壮一

◆ある自衛官からの手紙

 雫石事故の刑事裁判で1975年(昭和50年)3月11日、盛岡地裁航空自衛隊の教官と訓練生に有罪の判決を言い渡した1週間後、未知の人から一通の手紙を受け取った。
 毎日新聞社宛てだったため、防衛庁記者クラブにいる私の手に入るまで3、4日かかったが、それは速達だった。
 読んでいくうちに、手紙の主は、ある戦闘航空団の副司令と分かった。もちろん、私はこの副司令と会ったこともないし、名前も知らなかった。
 手紙の内容は判決の夕刊に書いた「本当の被告はだれか」という署名原稿についての感想だった。
「……私たちの言いえぬ気持ち、あるいは市川君(訓練生)のギリギリに追い込まれた心情を明らかにしていただき……筆を取った次第です。……私たち航空自衛官は、原因や、責任の所在はどうであれ……ふたたびかかる事故のないよう努力いたし、またご遺族の方々に対しても心底から、再発防止を誓っているつもりです。……と同時に、なぜあのような事故が起きたのか、その背後になにがあったのかについて、真相が伝えられるべきではないかという気持ちも抑えがたいものがありました。……しかし私たちの心情と真相を理解し、表明していただける方々もいるということを知り、信頼と勇気を持って、今後も部隊で万全の努力を致す所存であります。……」
 自分の書いた記事について、見知らぬ読者から手紙や葉書をもらうことは一年に一度、あるかないかだ。まして、自衛隊に対して、手厳しい表現も使った原稿である。そのなかで、私の真意を、素直に理解していただけた。

◆真の事故原因を追及した刑事裁判

 ルバング島小野田少尉救出取材(1974年3月10日)から半年たって、私は『サンデー毎日』副編集長から社会部に戻っていた。新しくできた編集専門委員として航空と防衛と事件担当。毎日新聞が経営困難になりかけていて、「防衛庁記者クラブの常駐もやって欲しい」と言われ、喜んで引き受けた。そして盛岡地裁の判決である。
 その日の夕刊は、社会部の裁判所クラブを中心に防衛庁、民間航空、運輸省盛岡市局担当の記者、それに、応援取材の遊軍記者の合作となる。しかし、これだけは、1971年7月30日以来、真実を見続けてきた新聞記者の義務として、いや“権利”としてわたしが書くことに決めた。--「本当の被告はだれだ」「航空路再編を放置 防衛庁運輸省 背を向ける」は、夕刊の1面の3分の1を占める8段の記事になった。
 この刑事裁判は1978年5月9日、教官は控訴破棄としたが、訓練生は見張りの能力がなかった、と無罪判決を下した。さらに上告した教官に対し、最高裁は1983年9月22日、見張り義務違反を認めながらも、事故の背景となったずさんな訓練計画などこそ、真の事故原因であるとし、禁固4年を3年に減じ、執行猶予3年とした。
 最近は航空機や列車事故の原因について、個人の責任やミスの追及だけに終わらず、その組織の“安全文化”や、事故を生む背景の分析が調査されるようになった。雫石の刑事裁判は、30年前としては画期的なものと言うべきだ。
 だが、民事裁判では大きく違っていた。

◆「全日空機に40%の責任がある」と民事裁判

 全日空は1973年(昭和48年)2月20日、国を相手に損害賠償請求訴訟を起こした。(損保保険会社と乗員遺族も同時に)。
 若狭得治社長は「航空管制の指示に従って飛行している民間航空の定期便に、訓練中の自衛隊機が接触し162人もの生命が奪われた。航空行政に問題があるならば、それも明らかにするべきである。そうでなければ、亡くなられた方々に申し訳がたたない。きっちり訴訟を起こして筋を通すべきである。自衛隊を訴えるということは、国を訴えるということであり、監督官庁である運輸省にも影響が及び、われわれの日常業務にも、さまざまな支障が出てくるかもしれない。それを覚悟して欲しい」と全日空幹部に言っている。
 東京地裁民事訴訟は、若狭社長が懸念したとおりに進んでいった。刑事判決が検察対象で、言わば国対国であるのに対し、民事裁判は国(自衛隊)対民間企業(全日空)である。事故調査報告は「全日空B.727機がジェットルートJ 11Lを外れ、仙台に向かって南下し、自衛隊の訓練空域に飛び込んできた」と主張した。
 もちろん、全日空側は反論し、自衛隊側の責任を認めた盛岡地裁の判決もあったから、民事裁判で“負ける”とは考えていなかった。
 ところが、1978年9月20日の民事第1審判決は、過失割合が3対2で、全日空側にも40%の責任がある、としたのだ。全日空にとっては“寝耳に水”の驚きと衝撃だった。

◆逆転、また逆転


 なぜ、全日空だけでなく、世論も予測しなかった結果になったのだろうか。運輸次官まで務めた若狭社長の懸念を軽く見ていたのかもしれない。それとともに、盛岡地裁判決の翌76年に起きたロッキード事件の影響も否定できない、とわたしは思う。そして7月8日に外為法違反で若狭社長、27日に収賄田中角栄首相逮捕と続く。--「全日空に40%の責任あり」という民事判決は、その2年後である。
 双方とも、東京高裁に控訴した。民事で争点になっている「B.727とF-86Fが接触した地点」について、全日空は絶対の自信を持って新しい証拠を提出した。B.727の乗客のひとりが、進行方向右側の窓から地上を撮影していた8mmフィルムだ。そのフィルムの解析によって、B.727が、どこの上空を飛行していたか、科学的に判定できるのだ。遺品の中にあったこのフィルムは初めから全日空が保管していたが「遺品だし、法廷に持ち出さなくても勝てるだろうと考えていた」という。
--この新証拠が数ヶ月後、「全日空機が訓練空域を飛行していた」ことを立証する逆の鑑定書に変ずるとは、夢にも思っていなかった。(つづく)
●(かじ・そういち)筆者は元毎日新聞社会部編集委員、現航空評論家

 別に自衛隊を応援しているわけでも、シンパでもないが、一人の人間としてのこの空自幹部の訴えには心を打たれるものがある。「本当に悪いのは文官、政治の怠慢である」。その思いを彼らは胸にしまって耐えるしかなかった。たとえ正しいことであっても、武官が為政者や文官を非難することはできない。それを真正面から言葉にしてくれた解説に 、真情を吐露したい気持ちを抑えられなかったのだろう。
 部活の先輩に制服組がいるのだが、OB会で飲んだ時、こんな事を言っていた。「自衛隊は長らく日陰者だった。以前は、表舞台で脚光を浴びることはできなくても、日陰者の矜持があった。だが、今はその矜持を忘れ、国民に支持されているからというおごりにつながっている」
(鍛治信太郎)

第12回 自衛隊機に追突したANAの方が悪いと信じる人たち 未だにいるのは驚き 雫石事故

 1971年7月30日、全日空の旅客機ボーイング727航空自衛隊の戦闘機F-86が空中衝突した雫石事故。「速度の遅い自衛隊機に速度の速い旅客機が追突したのだから、旅客機の方が悪い」。いまだにこんなトンデモ説を信じて書いている人がいるのには驚きだ。ちゃんと事故の詳細を分かっている人がわざとそういう風に教えていた時期もあったが何十年も前の話だ。
 まるで、時速80kmしか出ないバイクに、後ろからバスが時速100kmで衝突したかのように言っているが、そんな事故ではない。あえて、車の衝突に例えてみよう。
 高速道路に、高速バス専用のレーンとバイクの訓練用レーンが並んで設けられていた。高速バスはそのレーンに沿ってただまっすぐ走るだけ。バイクの方は訓練をするので、レーンの中をジグザグに走ったり、右や左に急ハンドルを切って回ったりする。その日は、訓練生が教官と隊列を組んで走っていた。そこに、隣のレーンで、後ろから高速バスが近づいてきた。訓練生は教官の走りについていくのに必死で、隣のバス用のレーンに飛び出してしまった。教官が警告したが、間に合わず、急ハンドルで返って高速バスの進路をふさいでしまい、追突された。
 これで、バスの方が悪いという論理がどうやって成り立つというのだ。空を飛んでいる航空機に急ブレーキはない。確かに最高速度はB727の方が速いが、速度の問題ではない。戦闘機は機体の安定性を下げて、運動性を上げているので、急旋回など小回りが利くが、旅客機は機体の安定性を高めているので、急旋回などをするようにできてない。
 刑事裁判は最高裁まで争われたが、訓練生は無罪。教官だけ執行猶予付きの有罪になった。だが、この事故で一番悪いのは誰だろうか。それは、もちろんANAパイロットではないし、訓練生でも教官でもない。教官よりも責めを負うべき存在があったから、執行猶予になったのだ。訓練生や教官のみが責められ、真に被告席に座るべき者が何の責任を感じていない。その無念さの亡霊がこのような都市伝説を生むのだろう。

 次回、刑事裁判の一審判決の際、新聞の1面を飾った鍛治壮一の解説とそれに寄せられた航空自衛隊のある戦闘航空団副司令の切々とした思いを紹介する。

第11回 大勲位は何もしなかった 変わらぬ責任取らぬ政治の怠慢 予測された航空機事故

 1971年7月30日、岩手県雫石上空で 航空自衛隊の戦闘機全日空機が衝突し、162人が死亡した事故。裁かれるべきその真犯人は誰か。

 

書けなかったこと書きたいこと(鍛治壮一)
雫石事故のショック(その2)

◆空中衝突を予告した報告書

 雫石事故の起こる5ヶ月半前の71年(昭和46年)2月15日に航空幕僚監部の監察官、鈴木瞭五郎空将補は「飛行安全特定監察報告」を空幕長に提出した。ニアミス防止のため、その前の1年間をかけ、全国の航空部隊で実態調査をし、その対策をどうするかをまとめた分厚い報告書だった。空幕内で、さらに検討したあと、4月に中曽根康弘防衛庁長官に空幕長と監察官が説明した。いまのように資料をパソコンに入力して投影するわけにはいかないから、紙芝居の4倍ぐらいの大きなチャートを何枚も作って大臣に分かりやすく説明。その2週間後に、全く同じ内容を防衛庁記者クラブにも監察官がレクチャーした。
 航空自衛隊パイロットの多くが、ニアミスや、それに近い“ヒヤリ・ハット”を体験していること。ニアミス防止のため空域をもっと有効安全に使いたい。具体的には、空域を平面的に分けるだけでなく、時間差、高度差を設ける。訓練空域へ行くためのコリドー(回廊)を設置することなどが細かく報告されていた。「その実現のため空幕の防衛部などが運輸省航空局の担当者と折衝してきたが、進展しない。防衛庁運輸省の事務担当者同士の話し合いのテーマではない。大臣同士とか、政府そのものの判断によって、ニアミス防止の具体的な方策をやっていただきたい」という趣旨である。報告書は「このままでは異常接近(ニアミス)にとどまらず、空中衝突の危険もある」と結んでいた。
 しかし、鳴りもの入りで大臣に就任した中曽根長官は、何もしなかった。空幕長室の近くにあった空幕広報で取材していると、よく上田泰弘空幕長が顔を見せる。決まって言うことは「本当に心配なんです。空中衝突でもしたら、大変なことになると、気が気ではない」--、そして7月30日、F-86F戦闘機と全日空B.727の空中衝突が起きた。

◆「私も危ないと思った」防衛庁長官

 中曽根長官は交替して増原恵吉長官になっていた。毎日新聞の政治部から防衛庁記者クラブ詰めをしているS記者が自民党の総務局長になっていた中曽根さんの話をきにいった。
「僕も危ないと思っていました」のひと言だった。
 監察官や空幕幹部が、空域について航空局と話し合うのはかなり困難なことだった。とくに、管制官の組合は自衛隊に対しても厳しくて、事務当局レベルの交渉は不可能な時代だった。
 その一方で、国・政府は航空自衛隊スクランブルや訓練の任務を命じている。シビリアン、その長である防衛庁長官自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣は「なんとか空域とその運用について“政治的”に考慮して欲しい」という航空自衛隊の声に、少しも耳を傾けようとしなかった。
 雫石事故後まもなく、政府は運輸・防衛の関係者を集め、空中衝突防止のための「緊急対策要綱」を作って公表した。内容はなんと、「飛行安全特定監察報告」で、こうして欲しいと空幕が要望していたものと、ほとんど同じだった。

◆政治の怠慢こそ犯人

 雫石事故は予測された事故だと言われる。だがそれだけではない。本当の被告席に座るのは、国であり、政府であり、行政である。監察報告の切実な願いに、一顧だにしなかった“政治”の責任である。自衛隊機がからんでいるというので、内閣総理府交通安全室が雫石事故を担当した。事故報告書に、こうした政治や行政の怠慢が記載されるはずもない。恒久的な航空事故調査委員会が発足したのは、さらに2年後の73年10月である。

●(かじ・そういち)筆者は元毎日新聞社会部編集委員、現航空評論家

第10回「言っていいかどうか 機関銃がないんです」社会面トップの特ダネ

 1971年7月。当時、史上最悪の犠牲となった雫石航空機衝突事故。現場には新聞各社の社会部から大量の記者が投入された。どうも他社に特ダネを抜かれてばかりだった毎日新聞社会部は、ベテランの鍛治壮一を現地に送り込んだ。

 

書けなかったこと書きたいこと(鍛治壮一)

雫石事故のショック(昭和46年7月30日発生)


◆社有機で現場へ

 1971(昭和46)年7月30日、岩手県雫石上空で航空自衛隊のF-86Fと全日空のB.727が空中衝突し、乗客乗員162人が死亡した。F-86Fを操縦していたI訓練生はベイルアウト(*1)して助かった。防衛庁記者クラブ常駐だったから、六本木で増原長官や上田空幕長(*2)の記者会見、関連取材と原稿書きに追われた。翌日、事故前後のバッジ(*3)の記録を見せてくれるというので、三沢の北部航空方面隊司令部へ飛び、カラーデータ・スクリーンをチェックした。そんなことで、雫石の現場へ行ったのは事故の10日後だった。
 事故の一報とともに、東京の社会部から10人以上の記者・カメラマンが盛岡支局に応援にかけつけていた。ところが、1週間目に全員が引き揚げてきた。遺体の収容など、現場の取材が終わったためだという。しかし、破片のキズ跡を見ても、B.727とF-86Fのどの部分が接触したかなど、支局の記者では、わからない。他社は応援記者が残っているから、だれかきてほしいという要請だ。8月上旬で東北線は超満員、もちろん新幹線はまだできていない。やむを得ず、毎日新聞社機のMU-2が私と、警察庁キャップをやっているM記者の2人を花巻空港まで送ってくれた。

◆雫石から松島へ

 現場では運輸省の事故調査委員と、それを手伝う航空自衛隊員が機体の残がいを調べていた。もう100人以上の記者たちが取材したあとだから、新しいものは何もない。次の朝、列車で松島まで戻った。事故を起こしたF-86Fは浜松の第1航空団所属で、訓練のため松島の第4航空団に派遣されていたからだ。松島のH航空団司令は顔見知りだった。第1航空団副司令のときに取材したことがある。
 ここで新しい事実もつかめた。その内容は次号に書くとして、自衛隊を取りまく雰囲気は厳しかった。上田空幕長が遺族に土下座する写真が新聞に載るし、“人殺し”呼ばわりにも耐えなければならなかった。

◆機関銃がなくなった

長い取材を終えて帰ろうとするとH空将補がこう言う。「鍛治さん、困ったことがあるんです」--これ以上、困ることなんかあるんだろうか。「なんですか?」「いや、言っていいかどうか……。じつは落ちたF-86Fから機関銃がなくなっているんです」「えっ!!」
 F-86Fは機首に12.7mm機関銃が6挺、埋め込むように装備されている。「空中衝突したとき、はずれて落ちたんですか」「いや、そうじゃないんです」「えっ!!」「ネジ回しか何かで、取りはずした跡があるんです。事故後、かなりたってからF86-Fの残がいの近くに警備員を立てたんですが、その前に、はずされた跡があるんです」「六本木の空幕には知らせたんですか」「ええ、空幕までは……」「警察や事故調には?」「知らせてないんです。これだけ世間を騒がせ、国民の皆様に申し訳ない事故を起こして、その上、機関銃を盗まれたなどと警察に言えません。まだ黙っているんです」

◆「やっぱり盗まれている」

 盛岡支局にとって返し、F-86Fの機首と機関銃の位置の絵を描いて(*4)、警察庁キャップのM君に渡した。「警察庁から現場指揮で君の知ってる警視がきているだろう。彼にこれを渡して、機関銃が付いているかどうか調べさせろ。盗難が事実だったら、こっちは夕刊の特ダネ記事にするから、他社には言うなとクギをさしておいてくれ」
 翌朝、M記者から「機関銃が付いていません」と電話がきた。
『F-86Fから機関銃が盗まれた』が、夕刊社会面のトップ記事になった(*5)。当時も過激派の動きに神経をとがらせていたから、だれが、なんの目的で盗んだのか、世間は注目した。他のマスコミから「なぜ盗難の事実を隠していたのか」と非難攻撃されたが、こっちが警察に教えたネタだから、ニュースソースは伏せてくれた(*6)。
 半月ばかりたって、近くの農家の押入れから機関銃が発見された。背後関係はなく、F-86Fの残がいを見て、「記念に持っていこう」と道具を使って若い者が機関銃をはずし、自宅に隠していたという。
 機関銃盗難が問題ではない。その事実を警察に通知できない航空自衛隊に、雫石事故のショックの大きさをみる。
●(かじ・そういち)筆者は元毎日新聞社会部編集委員、現航空評論家

脚注(鍛治信太郎)

*1 ベイルアウト 飛行不能になった時、パイロットが緊急脱出すること。
*2 空幕長 航空幕僚長航空自衛隊を指揮する航空幕僚監部(空幕)のトップ。
*3 バッジ・システム 自動警戒管制組織(BADGE)。Base Air Defense Ground Environmentの略。全国のレーダーサイトなどをリアルタイムで結んだネットワークで、領空侵犯への自動警戒などを担う。

*4  鍛治壮一はポンチ絵のような物を書くのが得意だった。
*5 写真の通り、確かに第1社会面のトップ記事だが、機関銃が行方不明になったにしては扱いが小さくないだろうか。今ならもっと大騒ぎになる気がする。万事おおらかな時代だった。
*6 新聞社から重要なネタを提供された場合、その社が記事にするまでは他社には漏らさないのが信義だった。

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機関銃紛失の特ダネ

 

第9回 野田秀樹取材の裏で暗躍したのは・・・

 一般的にはまだメジャーではなかった野田秀樹を、なぜ、社会部の鍛治壮一が全国紙の1面で初めて紹介したのか。その裏で”暗躍”したのは妻のみさ子だった。
 みさ子は演劇雑誌か東大新聞か何かで東大の駒場小劇場で活動する「夢の遊眠社」の記事を読んで興味を持ち、本多劇場の「小指の思い出」、紀伊国屋ホールの「瓶詰のナポレオン」などを見に行った。後に、夢の遊眠社の創立メンバーで、制作の中心だった高萩宏さん(現・東京芸術劇場副館長)に会った時、笑い話をしてくれた。「その日初めて会ったお客さんなのにいきなり説教されたんです」。芝居に詳しいみさ子は、まだ素人集団を抜け切れていなかった夢の遊眠社のチケット販売や受け渡しの方法が「なってなくて」見ていられなかったらしい。現場にいた高萩氏にいろいろ言った。それ以来、公演のたびに雑談するようになった。
 1984年、野獣降臨(のけものきたりて)の再演。地方展開など劇団がプロ集団として脱皮する重要な局面を迎えていた。「今回はチケットの出足がよくないんですよ」と高萩氏はなんとはなしにみさ子に言った。大学生が自分たちで作った劇団を苦労して続けている、何とか応援したいものだ。家に帰ったみさ子はふと思いついて、高萩氏に電話した。「毎日新聞の鍛治壮一に取材してもらったら?」。「私の名前は出さずに、大学の後輩のよしみで電話すればいい」と付け加えるのも忘れなかった。自分が糸を引いていると知ったら、絶対へそを曲げると思ったのだ。どう言ったのか分からないが高萩氏は普通に毎日新聞に電話して、普通に鍛治壮一に取材依頼したようだ。大学の後輩と言ったって、教養学科と文学部。ゼミやサークルが同じわけではない。年間3000人から卒業生がいて、年も20以上離れているのに、どこで自分の事を知ったのか、不思議に思わなかったのだろうか?
 毎日新聞朝刊1面のひと欄で野田秀樹が紹介された日、みさ子は高萩氏に「今日載りました」と電話。高萩氏は掲載を知らず、「そうですか。どおりで、今日はチケットの予約が妙に多いなと不思議だったんです」と納得していた。

第8回 演劇はスポーツだを一人歩きさせて野田秀樹を困らせた

 1972年、東京教育大学附属駒場高校(キョーコマ)*1に通う天才が処女戯曲を自作自演。東京大学文科1類(*2)に進学。教養学部キャンパス内にある寮の食堂ホールを改装。1976年、劇団「夢の遊眠社」の拠点となる駒場小劇場が生まれた。
 新聞社で演劇や映画、小説など芸術を担当するのは学芸部(*3)だ。だが、劇評欄でない一般読者向けの欄で、野田秀樹を初めて紹介したのは社会部の記者が書いた1面の「ひと」だった。

野田秀樹
”演劇はスポーツだ”
創立八周年の「夢の遊眠社

 「ぼくは挑発したいんです。芝居をやる者は、スポーツは演劇より低俗で文化的ではないと思っているでしょう。彼らは、うちの芝居を、なんで体を、あんなに動かすんだという。それに対する反論です。激しく動いた果てに静止して、息を押さえて朗々としゃべる技術的高度さを理解しない。いいものを創(つく)ろうとして、はみ出した部分だけをみている」
 東大の学生食堂わきの駒場小劇場で昭和五十一年、夢の遊眠社を結成、自ら脚本、演出、主演して、若者の圧倒的な共感を得た。この一月、紀伊国屋ホールでの「瓶詰のナポレオン」で観客十万人を突破し、いま東京・下北沢の本多劇場で「野獣降臨」(のけものきたりて)を再演中。
 「この芝居で何を言いたいのだ、と聞かれて答えるだけでも、自分は少し、やさしくなったんですね。一九六九年七月、アポロ11号の月着陸という宇宙の側へ漂流した人間と、逆に太古の方へ漂流した人間がいたことに興味を持ったから、と言ってるんです」
 圧倒的な言葉のおもしろさと、素早い展開に、“乾いたマリオネット”“プラスチック製のファンタジー”の賞辞から“難解だ”まで評価はさまざま。
 「べつに劇評をもらうために芝居してるんじゃありませんが、実際にどこのお客さんが足を運び、おもしろいと喜んで帰っていくか、まったく反映していませんね。その点、テレビ番組については評論家もウソはつけない。みんなが観(み)ていますから」
 切符が入手難だというので、社会人当日券電話予約を実施。五月は京都と芦屋で初の地方公演。「うちが芝居をやるとき、いつかその町全体が、祭りになるようになりたいですね」
(鍛治壮一)

 鍛治壮一は、後に読売演劇大賞の授賞式で野田秀樹に会った際、「覚えてますか?」と尋ねたら、「覚えてますよ。『演劇はスポーツだ』と書いた記者さんでしょう。あの言葉が一人歩きして困りましたよ」と言われた。読めば分かる通り、見出しになっているだけで本文には「演劇はスポーツだ」とは書かれていない。通常なら、意を汲んだ整理部編集者が付けた見出し。鍛治壮一が自分で考えてこの見出しにするよう頼んだのかもしれないが。
 俳優の江守徹、劇作家の別役実、演出家の木村光一もひと欄で取り上げていたため、「いつ、学芸に移られたんですか」と嫌みを言われたそうだ。
 ちなみに、野田秀樹に会いに行った当日、朝日ジャーナルに(飛ばされて)いた筑紫哲也も取材に来ていて(*4)、「鍛治さんがこんなとこで何してるんですか?」と不思議がられた。会ったのは同じ日だが、新聞と雑誌では製作の速度が違うので載ったのは先だった。後に書籍にもなった「若者たちの神々」という連載だ。

  もちろん、演劇界ではすでに注目を浴びていた。だが、活動は舞台のみ。テレビドラマやバラエティーに出るわけでもない。友人、知人で年に1回でもお金を払って芝居を見に行く人が何人いるか考えたら、当時の一般知名度がどうだったか想像がつくだろう。

  なぜ、社会部記者が野田秀樹を取材する事になったのか。次回は裏で暗躍した人物の話。

 

脚注
*1 キョーコマ。現在の筑波大学附属駒場高校(ツクコマ)。学力で日本のダントツ頂点に立つ国立高校。全盛期、キョーコマの東大合格率は90%を超えていた。東大合格者数で1、2位を競う私立の開成や灘ですら足元にも及ばない。現在も現役合格率が50%を超える唯一の高校。
*2 東大の1、2年生は全員、駒場教養学部にいる。文科1類は3年になると本郷の法学部に進む事が決まっている。ただし、転学、転科は可能。同様に文科2類は経済学部に進む。文科3類は2年半ば時点の成績で文学部、教育学部教養学部などの希望学科に振り分けられる。野田秀樹は法学部中退。教養学部時代、「演劇をやるのにどうして(法学部の)文科1類なんですか?」とどうでもいい事を何度も質問される事にウンザリした野田は、あるインタビューで「(文学部の)文3だとバカだと思われるからです」とシャレで答えた。文3の学生が「1浪してやっと入ったくせにふざけるな」と怒っていた。
*3 昔は学芸部と呼ぶ新聞社が多かったが、マンガ「美味しんぼ」の主人公が所属する東西新聞のモデルになった新聞社のように名称が文化部などに変わったところもある。
*4 飛ばされたなどと言ったら、朝日ジャーナルサンデー毎日に失礼だが、当時の新聞社内は、新聞本体(編集局)と雑誌や書籍を担当する出版局の間に厳然としたヒエラルキーがあった。給料も違う。

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全国紙のひとで初めて野田秀樹を紹介

 

 

第7回 朝日に席を譲った優しき後輩 最後の日本兵救出取材の苛烈な戦い異聞

 3回に渡った小野田寛郎元少尉救出取材合戦。一度は輸送機が墜落して死んだ方がマシと絶望し、最後は勧進帳で紙面を埋め尽くす800行を吹き込んだ。この裏話のさらに裏話を鍛治壮一から聞いた事がある。この合戦のクライマックスは小野田少尉(*1)の元に最初に行く軍用ヘリUH-1イロコイの席取り競争だろう。前回にあるとおり、サンデー毎日のデスク・鍛治壮一とカメラマンのほかに、最初に行けた日本の報道陣は4人しかいなかった。10数人の記者が大型の四輪駆動車で着いたのは、小野田さんの会見には間に合ったとはいえ、3時間遅れだった。
 実は、この車に本当は毎日新聞社会部の後輩記者が乗っていた。ところが、乗り損なった朝日新聞の記者に「毎日は先に鍛治さんが行っているから、譲ってくれ」と頼まれ、譲ってしまったという。後で、その話を聞いた鍛治壮一は「君はバカだな。君が譲らなければ、朝日は会見の記事を書けなかったのに」と後輩に言った。
 当時、他社でも、この取材に投入されるクラスの新聞記者で、鍛治壮一の名前を知らない者などいない。もしかしたら、他社には相変わらず「社会部の鍛治さん」と認識されていたのかもしれない。だが、鍛治壮一はサンデー毎日のデスクであって、毎日の鍛治ではあるが、毎日新聞の鍛治でも、社会部の鍛治でもない。
 だから、紙面のクレジットは異例の「本社取材班」なのだ。そんなの見た事ない。普通は本紙取材班か社会部取材班だ。
 前々回にあるように社会部の後輩キャップから「もしもの時は、新聞の記事もお願いします」と頼まれていた。週刊誌の本来の仕事があるから、「サンデーの特集の入れと重ならなければいいよ。でも、重なったらサンデーを優先する」と答えた。当然だろう。運良く、新聞と週刊誌、両方書ける日程になったのだ。
 とはいえ、夕刊を800行埋め尽くすのは常識的には1人でやる仕事ではない。社会部の後輩のデスクやキャップ、若手記者に全面的に信頼されていたのだろう。
 最後の日本兵の初会見という世紀の瞬間に立ち会える切符をライバル紙に譲ってあげた心優しい社会部記者。記者クラブなどで顔見知りだったのかもしれない。もしも、逆に自分の社が誰も現場に行けない状況だったらどれほど上から失格の烙印を押されるか。それを想ったらいたたまれなかったのではないか。だけど、朝日の記者は逆の立場だったら譲らないと思うけど(*2)。そういう朝日や鍛治壮一の方が記者としては正しい。ジャーナリストの使命を果たし、国民の知る権利を守り、ライバル紙に勝つためなら、いくらでも非情になれる。だが、人としてはどうかというと。お人好しは新聞記者に向かない。
 後に、社会部の後輩デスクから「鍛治さんがいなかったら大変な事になっていた」と感謝された。
 いつかこの連載で取り上げるが、鍛治壮一は同期の西山事件で、自分の信念に従い、「あれは知る権利とは言えない」と会社の意向に逆らう発言をした。黙らないので、上からにらまれ、新聞製作部門である編集局の記者から週刊誌へ、デスクに"出世"という形で"栄転"させられた。
 UH-1イロコイに向かってダッシュし、7席しかないシートを確保したあの日。この席が取れたか、取れないかが、記者人生の運命の分かれ道だっただろう。航空記者、マニアとして、イロコイの定員や乗り方を知っていた事も多少は有利に働いたかもしれない。その後、追放された編集局に復帰し、編集委員となり、「ロッキードの毎日」といわれた社会部の特ダネ記者に返り咲く。
(鍛治信太郎)

脚注
*1 姿を現した1974年、小野田さんの帰る帝国陸軍はとうにない。だが、彼は日本が全面降伏した後も部下を失いながら29年間遠い島国で戦い続けたのだ。武装解除の儀式が終わるまでは元少尉ではなく、少尉だったと思う。
*2 先に行った週刊朝日のデスクに全面的に記事を任せて、自分は会見に出られなかったなんて言ったら、上から間違いなく社会部記者失格の烙印を押されるから。読売はむちゃくちゃイイ人ととてつもなく人として間違っている人の両極端なのでどっちに転ぶか分からない。

第6回 カメラマンをヘリから蹴落としたと濡れ衣 最後の日本兵救出取材の苛烈な戦い(下)

 取材合戦の最終話。

 

航空・防衛記者ひと筋40年 カジさんの名物コラム復活!
続「書けなかった事、書きたいこと」
第12回 勝ち取った小野田少尉取材戦争

◆「ベルトを締めろ!!」
「あれだ、あれしかない!!」。1機だけ別に遠く離れて着陸したUH-1イロコイに向かって加藤カメラマンと走った。あのヘリは、連絡に戻ってきただけで、山頂へ行かないかもしれない。でも、あれに賭けるしかない。5、6m前に1人走っている。
 イロコイのシートに飛び上がるようにして乗り込む。「ベルトだ。ベルトを締めろ」と叫んで加藤君と並んで座った。
 あっという間に機内は天井まで空間がなくなった。膝の上にテレビカメラや三脚が投げ込まれる。「もう少し、つめろ」と、シートベルトなしで割り込む者、われわれの脚の前の狭い床に腹ばいになるAカメラマン。
 パイロット2人の他に定員は7人だ。空軍兵士が、ベルトを締めていない者を引きずり降ろした。後から「カジ君は、カメラマンを蹴落とした」と言われたが、そんなことはない。
 6時18分、ヘリが離陸した。「よし、いくぞ」。加藤君と肩をガツンとぶつけ合った。嬉しかった。この一瞬のためなら、何を犠牲にしてもいいと思った。
 上昇。目指す山頂のレーダーサイトの白いドームだけが夕日に、わずかに赤く染まっている。それも、ほんの1分か、30秒。ジャングルに夕暮れはない。足の下で灰色から、すぐに黒い闇に包まれていく。
 7分後、レーダー基地に降りる。軍用トラックで将校宿舎前へ。誰がついたのか、そこで分かった。私たち2人と共同通信のY君ら日本人記者は6人だった。

◆メモしまくる2時間半余

 小野田少尉は、午後3時過ぎから自分の軍刀を捜しに、元上官の谷口少佐やフィリピン空軍らとヘビ山へ行って、まだ戻っていない。しかし、小野田さんと接触した兄の敏朗さん、厚生省の柏井団長と井上部員、空軍曹長がいた。私はただ、もう彼らから聞きまくり、メモ帳に殴り書きした。そのうち谷口元少佐と空軍のカバワン少佐がひと足先に戻ってきたから、小野田さんの様子、住んでいた場所、どうやって生活していたのか、聞けることは全部、剥ぎ取るように質問を繰り返した。気の早いものは、もう原稿をまとめている。でも私は、例によってメモ帳の片面だけに、大きな字で書き続けた。
 10数名の記者が、大型の四輪駆動車で山頂までやってきたのは3時間くらい経ってからだった。それでも20~30人くらいは乗れないで下に残っているという。

◆「嬉しかったことはない」

 9時15分、小野田さんが暗がりの中からわれわれの前に出現。ラングード空軍司令官に軍刀を渡した。「武装解除」という儀式だ、と言う。
 記者会見は、占部日本大使、柏井団長らに挟まれたかたちで小野田少尉が座った。ロスパニオス大佐が、始めに小野田さんを“発見”した鈴木青年を紹介すると拍手が起き、重苦しい空気がいくぶん和らいだ。
 テレビのライトやカメラの絶え間ないフラッシュにも小野田少尉は、眉ひとつ動かさず不動の姿勢をとった。--2年前、グアム島で最初に横井庄一日本兵に会ったとき、私たちを「日本人かどうかわからない」と言った。それとは小野田少尉は異質なもの、別の世界のものと、すぐに気づいた。
 命令、任務、判断……という答えが返ってくるなかで、小野田さんが感情をナマで見せた。
「もし、あるとすれば、一番嬉しかったことは?」という質問。彼は、しばらく答えなかった。そして、「29年間、嬉しかったことは今日のいままでありません」と吐き出すように言った。情けなかったに違いない。こんなことを聞かれて。
 両親のことを尋ねたとき、小野田さんはうつむいた。
「自分の戦死を予期してあきらめてくれている父や母親が、それでも自分の無事の生還を願う精神的なハリが長生きさせてくれたんだと思います」。言葉はポツリポツリだった。ずっとこらえていた感情を抑え切れないようだった。
 フィリピンの記者が途中で「軍刀を抜いて見せてください」と注文した。ツカに白いタオルが巻いてある。このとき小野田少尉は5、6人おいて後方にいる谷口元上官の方を向いて、何か懇願するような表情を見せた。「いいから、いいから」と谷口元少佐が目で合図する。ボロボロに刃こぼれしている軍刀を恥じたのだ。
 10時20分、ラングード司令官に促されて小野田さんは席を立ち、脱いでいた戦闘帽をふたたび被って、挙手の敬礼。カメラが止むまで不動の姿勢を崩さなかった。この夜、小野田さんは52歳の誕生日(戸籍上は19日だが、本人も兄も陸軍記念日の5月10日だという)。

◆5時間、電話口で吹き込んだ原稿800行

 さあ、一刻も早くマニラに戻らねば。新聞の朝刊は時間切れでも、夕刊の早版から原稿をたたき込まねばならない。この取材の最後の戦い。“戦果”は、それによって決まる。
 3台の大型軍用トラックに報道陣満載でガタガタ山道を下りる。満月から2夜経った月が冷たく、われわれだけを照らす。ジャングルは月の光を吸い込んだように真っ暗であった。揺れるトラックの荷台の上で、原稿にする項目を考えた。
 本記のほかに、小野田さんの「住居」「食料」「1日の生活」……といったように。
 日が変わって5月11日午前0時50分、ルバング島の滑走路にタイマツが焚かれ、C-47輸送機は飛び立った。1時22分、マニラに到着。ホテルに着いたとき、疲れがドッと。だが、まだ終わりではない。
 3時(日本時間午前4時)から電話で原稿を送り始めた(*5)。メモ帳を1枚ずつ切り離し、テーマごとにベッドと机の上に並べた。例によって、国際電話が通じるまでに原稿の前文だけメモした。「この長い間、楽しいことは何ひとつなかった」--ただ、ひと言の命令を待って30年間。次々に倒れてしまった戦友……。
 そしてメモをカルタのように拾いながら、1行も書いてない原稿を“勧進帳”式(*6)に文章にしながら読み続けた。原稿の送稿が終わったのは午前8時だった。「会見」「所帯道具」「武器」「戦友の死」「隠し倉庫」……。800行を超えたことは日本に帰って夕刊を見たときに知った。質量ともに朝日や読売新聞を凌駕した。ただし、クレジットは「マニラ11日 本社特派員団」だ。「サンデー毎日編集次長 鍛冶壮一」とするわけにはいかない。前にも後にも唯一、私の署名のない記事となった(*7)。   (小野田少尉の項、終わり)

●(かじ・そういち)筆者は元毎日新聞社会部編集委員、現航空評論家

脚注(鍛治信太郎)

*5 この時代、インターネット、e-mailがないのはもちろん、FAXすら日本でさえまだ一般的でない。遠隔地からの原稿は電話や無線機による口頭で送っていた。
*6 勧進帳 新聞記者用語。原稿を口頭で送る際、あらかじめ書いた原稿を読み上げるのではなく、頭の中にだけある原稿をまるで読んでいるかのように伝える事。歌舞伎の演目「勧進帳」が由来。源頼朝の追求を受けて奥州に逃れる義経一行が「安宅の関」を通る際、関所を守る役人から義経ではない証拠となる勧進帳を読んでみろと命じられる。武蔵坊弁慶は白紙の巻物を勧進帳だと言って読み上げるフリをする。義経記などを元にした能の「安宅」から歌舞伎となった。だが、このエピソード自体は義経記などになく、能の作者が勝手に話を盛ったらしい。
*7 当時の日本の新聞では、一般の記事に記者の署名がないのが普通だったが、海外特派員だけは必ず署名を入れるのが明治からの習わしだ。現在は、ほぼ必ず入れる(毎日など)、おおむね入れる事が多い(朝日など)、特別な記事にしか入れない(日経、読売など)に分かれる。欧米など日本以外の新聞は署名記事が基本。

第5回 墜落して死んだ方がいいと絶望 最後の日本兵救出取材の苛烈な戦い(中)

 週刊誌サンデー毎日のデスクなのに、現地取材班として、新聞の取材合戦に参加した裏話の2回目。
航空機マニアな航空ジャーナリストがC-47やUH-1に絶望を味わわせられる。

航空・防衛記者ひと筋40年 カジさんの名物コラム復活!
続「書けなかった事、書きたいこと」
第11回 絶望、また絶望の小野田取材の“戦争”

◆抜け駆け取材不可能の厳重規制

 戦争が終わって29年。何度も何度も捜索したが行方がわからない。二度も戦死と断定した小野田寛郎少尉が、確実に生きてルバング島にいる。「生きてスパイ活動をせよ」という離島残置諜者の命令を守って戦っていた。鈴木青年とジャングルで会い、「上官の谷口義美少佐の命令がない限り、ここで戦う」と言った。
 今度こそは絶対に救出する、と奮い立ったのは日本政府や肉親だけではなかった。フィリピン政府の名誉にかけても成功させる」とマルコス大統領が、直にフィリピン空軍に特命した。そして、鈴木青年、兄の敏朗さん、谷口元上官だけがルバング島に上陸した。マスコミがルバング島で取材活動すれば、小野田少尉は姿を現さない。私はルバング島への“抜け駆け取材”は不可能と考えた。島は空軍のレーダーサイト基地だし、山頂への軍用道路以外に道らしきものがない。
 接近禁止を破って、漁船を雇って上陸を試みたテレビ会社の記者は、空軍に捕まった。加熱するマスコミに、空軍はやっと約束してくれた。「もし、谷口少佐らが小野田さんを発見したら、マニラに待機している取材陣に連絡する。各社2人ずつ、空軍輸送機で運ぶ」。毎日新聞社は新聞として社会部員とカメラマン、サンデー毎日の私とAカメラマンの4人を第一陣要員として空軍に登録した。しかし、社会部チームのHキャップは、「万一、1人しか小野田さんに会えなかったら、カジさんが原稿を書いてください」と言う。そういうときはそうしよう、と後輩のH君に答えた。

◆絶望!! C-47に乗り遅れる

小野田少尉との接触に成功。ルバング島に渡る記者代表団は、ただちに、ニコルス空軍基地VIPルームに急行せよ」--マニラに来て12日目の1974年3月10日の午後3時、日本大使館ルバング島のレーダー基地から無線が飛び込んだ。われわれのミスで連絡が30分遅れた。予測より早い。すごく早い。夕方なら翌朝、空軍機が運ぶ約束だった。夜間照明のないルバング島は、夜、離着陸できないからだ。それなのに、これは緊急事態だ。
 4時15分、ニコルス空軍基地。ゲートに入るとき、目の前をC-47輸送機が1機、2機、滑走路に向かって進んでいくではないか。3番機のプロペラが回っている。私、加藤カメラマン……、続いて共同通信の2人。駆け寄ると、すぐにドアが開けられ、「危ない。機体から離れろ、どけ!」と軍曹が必死に叫ぶ。
 VIPルームに連れ戻される。その間に30人あまりの記者団が順番を競って並んでいる。「とても乗れない。1社1人にしろ」と広報担当の空軍大尉。「早い者勝ちにしろ」と記者の1人。「そうだ、そうだ」という声が圧倒的。--小野田少尉との最初の会見に遅れたら、すべてはゼロ。これまでの努力が、すべて消える。見送りに来た社会部のHキャップが大きな声で「落ち着くように、あわてないように、みんなに言ってください」
 どうして落ち着けるのだ。先に着いた記者たちが小野田さんと会えたら、記者会見を待つはずがない。この2週間、いや1年半にわたる激しい取材合戦を体験してきた私には、それがわかる。

◆このまま墜落してもいい!

「C-123輸送機を使うから、全員オーケーだ。国際空港側の格納庫まで行け」
 大尉の言葉が終わらないうちにVIPルームの外へ。軍用ジープが通りかかった。大尉が指差しただけで、ジープに20数人がなだれ込む。「ドント・キル・ミー。助けてくれ」。ハンドルの上に押し付けられた伍長が悲鳴をあげる。空軍兵士たちは驚き、ゲラゲラ笑う。
 5時14分、フェアチャイルドC-123プロバイダーはマニラ空港を離陸。米軍供与のかなり使いこなした機体。2、3ヶ所に穴があいていて、ザー、ゴーというものすごい轟音の機内。カメラマンたちが、数少ない窓から下界を撮ろうと、やっきになっている。私も加藤君もチャーターしたセスナ機で、この空を何回往復したことだろう。
 じっと目をつぶり、ただ、最初に小野田少尉に会えるかどうか。それだけで一杯だった。先発のマスコミに1時間は遅れてしまった。「オンボロ輸送機だ。会見に間に合わないくらいなら、このまま墜落して死んだほうがいい」と加藤カメラマンに口走った。自分の飛行機が落ちてもいいとは。本当にそう思った。彼は今でも「あんなカジさんは見たこともない」と言う。
 5時40分、ルバング島上空。モヤと夕日の斜光で島は黄色く霞んでいた。

◆またも絶望のイロコイ

 5時44分着陸。滑走路1本と、そばに堀建て小屋みたいなバラックが2つ。いた。C-47輸送機が3機。バラックの方を見た。
 しめた。地元記者、サンケイ、テレビリポーター、朝日新聞記者たちが牛囲いのように鉄条網を張った中にいる。まだだ。
 夕日が沈むまで、もう何分もない。滑走路の向こうのサンゴ礁の海に、真っ赤な太陽が落ちていく。どうすれば山頂のレーダーサイト基地まで行けるのだろうか。われわれの“戦争”がまもなく始まる。
 6時5分、日没。遥か山頂からヘリの爆音。1機、2機、こちらに向かってくる。「小野田が乗っているんだ」「ここで会見だ」。誰もがそう考え、口々に叫びながら鉄条網の柵に近づいた。カービン銃の空軍兵士が阻止する。
 ベルUH-1イロコイ・ヘリコプターが2機編隊で着陸。回転翼はブンブン回したままなのだ。3機目は、遠くC-47の向こう側に降りた。
 6時15分、指揮官らしい将校が地元フィリピン記者に何やら耳打ちした。それが合図だった。
 柵を破って、ドッと70数名の記者、カメラマンが2機のヘリ目指して殺到していく。私がヘリに近づく前に、ヘリから人間がはみ出していた。絶望!?      (つづく)

●(かじ・そういち)筆者は元毎日新聞社会部編集委員、現航空評論家

 

続きは明日