第13回 雫石事故、真の被告は誰か 航空自衛隊幹部からの手紙
1971年、岩手県雫石の上空で、全日空の旅客機と航空自衛隊の戦闘機が衝突した事故。その刑事裁判の一審判決が言い渡された75年3月、鍛治壮一は見知らぬ戦闘航空団副司令からの手紙を受け取った。衝突機に乗っていた空自の訓練生と、編隊を組んで指導していた教官の2人が有罪となった判決。その判決の日の夕刊1面に載った解説への切々たる思いを訴える手紙だった。
1975年3月11日夕刊1面
本当の被告はだれか 航空路再編を放置 防衛庁・運輸省 背を向ける
雫石判決は二人の自衛隊パイロットを有罪とした。ホッとした表情をみせる全日空と対照的に「上官の命令に従った市川訓練生だけは無罪にしてほしかった」と防衛庁幹部は深刻である。だが、百六十二人の死を招いた惨事は、起こるべくして起きた。この取材を通じ、事故直前、空中衝突の危機が次々と叫ばれ、またその声が無視されていった事実を見てきた。法廷は、主に二人の戦闘機乗りの被告の責任をめぐって展開され、この事故の背景、本当の責任者を裁くことはできなかった。この裁判の被告席に座るべき者は、だれだったのか。
雫石の大惨事は予知されていた--。“空中衝突の危機が迫っている”と叫んでいたのは、ほかならぬ航空自衛隊だった。
事故の起こる五ヶ月前、航空幕僚幹部(空幕)は「飛行安全監察関連報告」という分厚い報告書をまとめた。ニアミス(航空機同士の異常接近)と空中衝突の可能性、防止策のすべてである。このため航空自衛隊は、その前年六ヶ月をかけて、空中衝突防止の特別監察を行った。このとき、全パイロット約千二百人からアンケートをとったところ、「ニアミスでヒヤっとした経験」は、なんと三百七十七件にのぼり、毎年急増していることがわかった。
そこで「航空路を飛んでいる民間機と、訓練空域へ出入りするため航空路を横断する自衛隊機との間に異常接近や空中衝突事故発生の公算が増大しているので……抜本的に航空路の再編成が必要である」と指摘し、航空自衛隊の内部規制を強化するとともに、民間航空を含む日本の空の問題として①航空路、訓練空域の再検討②ニアミス防止のため地上レーダーで全空域のコントロール、などを提案した。
この“緊急告知”は、空幕長が当時中曽根防衛庁長官に詳しく説明、一刻も早く運輸省と折衝するよう訴えている。
さらにその前年(四十五年)九月、総理大臣も出席し、防衛庁で開かれる高級幹部会合で、西武航空方面隊司令官が“空中衝突は時間の問題だ”と有田長官に報告している。制服の最高スタッフが年一回、当面する問題を長官らシビリアンに進言する場であった。
これら“緊急事態”を予告する報告に、防衛庁の長官以下幹部はどれほど真剣に取り組んだろうか。政府は何をしたか。--防衛庁と運輸省の話し合いは実を結ばなかった。具体的には何もしなかったのである。
政治や行政の責任回避は、そのまま裁判の中に持ち込まれた(被告は防衛庁でなく、二人の自衛隊員個人だったが)。
争点は「ジェットルートの保護空域にF86F戦闘機が入った」「運輸省航空局は当時、ジェットルートに幅があると、防衛庁に正式にいってきていない」「いや、反対に全日空機の方が訓練空域を飛んでいたんだ」……。法廷の駆引きは、それも当然だろう。しかし、事故の背景は別のところにある。そして、それは未だ完全には解決されていない。旅客機の運航と戦闘機の飛行は全く異質である。
事故は編隊飛行中に起きた。現代の空中戦は編隊が基本になるから訓練の重要な課目だ。訓練生に能力のギリギリまで要求するだけでなく、上官(編隊長)に対して絶対服従と信頼感を植え付けるのが目的(「操縦教範」)。接触した市川二曹は、フルイド・フォア(機動隊形=編隊の陣形の一つ)の編隊訓練中だ。敵機を発見したら直ちに応戦できるようお互いにカバーしながら飛ぶ。編隊長機の動きにつれ、市川機は右、左と常に位置と高度を変えながらついて行かなければならない。
市川二曹には、もう一つ過酷な条件があった。航空自衛隊パイロットの訓練システムは民間航空よりはるかにきびしい。飛行のたびに教官が評価表に採点する。離陸、旋回、編隊飛行などの項目に分かれ飛行中に操作の手順を間違えたりすると不合格を記入する。もし同じ項目を二度重ねると“進歩なし”とされ、別の教官がもう一回テスト。そのあと、パイロット訓練生をクビにするかどうか判定される。
かくて、市川二曹は難関をいくつか超え、最後の戦闘機操縦コースまできたが、事故当日、二度のミスでパイロットとしての正念場に追い込まれていた。つまり、市川二曹はただひたすら編隊長機を見失うまいと操縦に夢中だった。
空は安全になったか。もう空中衝突の危険はなくなったか--。訓練空域は航空路から完全に分離され、ジェットルートの中心から片側を少なくとも十マイル離れている。低高度九ヶ所、高高度十一ヶ所が主に海上に設定され、基地から訓練空域への往復は一本ずつの回廊で結ばれている。
この細い回廊や訓練空域を訓練に夢中になった自衛隊機が逸脱する可能性はないだろうか。空幕幹部は「下のレーダーサイトから訓練機を監視し、少しでも逸脱しそうになれば警告しているから絶対大丈夫だ」という。このレーダーは事故前からあった。使っていなかっただけ。
事故をきっかけに、運輸省は航空監視レーダーの整備計画を立て、航空法の一部改正案で、“パイロットの見張り義務”を明文化するはずだったが、いまだに日本の空は“穴だらけ”だし、法改正も日の目を見ていない。
事故の前、空中衝突の危険を指摘した声を無視した“政治”、いつも事故が起こるまで動き出さない航空行政、背を向け合った防衛庁と運輸省のナワバリ意識こそ、裁判の被告席で糾弾されるべきである。(編集専門委員・鍛治壮一)
続・書けなかったこと 書きたいこと 第13回 雫石裁判の波乱万丈--真実を求めて
鍛治壮一
◆ある自衛官からの手紙
雫石事故の刑事裁判で1975年(昭和50年)3月11日、盛岡地裁が航空自衛隊の教官と訓練生に有罪の判決を言い渡した1週間後、未知の人から一通の手紙を受け取った。
毎日新聞社宛てだったため、防衛庁記者クラブにいる私の手に入るまで3、4日かかったが、それは速達だった。
読んでいくうちに、手紙の主は、ある戦闘航空団の副司令と分かった。もちろん、私はこの副司令と会ったこともないし、名前も知らなかった。
手紙の内容は判決の夕刊に書いた「本当の被告はだれか」という署名原稿についての感想だった。
「……私たちの言いえぬ気持ち、あるいは市川君(訓練生)のギリギリに追い込まれた心情を明らかにしていただき……筆を取った次第です。……私たち航空自衛官は、原因や、責任の所在はどうであれ……ふたたびかかる事故のないよう努力いたし、またご遺族の方々に対しても心底から、再発防止を誓っているつもりです。……と同時に、なぜあのような事故が起きたのか、その背後になにがあったのかについて、真相が伝えられるべきではないかという気持ちも抑えがたいものがありました。……しかし私たちの心情と真相を理解し、表明していただける方々もいるということを知り、信頼と勇気を持って、今後も部隊で万全の努力を致す所存であります。……」
自分の書いた記事について、見知らぬ読者から手紙や葉書をもらうことは一年に一度、あるかないかだ。まして、自衛隊に対して、手厳しい表現も使った原稿である。そのなかで、私の真意を、素直に理解していただけた。
◆真の事故原因を追及した刑事裁判
ルバング島の小野田少尉救出取材(1974年3月10日)から半年たって、私は『サンデー毎日』副編集長から社会部に戻っていた。新しくできた編集専門委員として航空と防衛と事件担当。毎日新聞が経営困難になりかけていて、「防衛庁記者クラブの常駐もやって欲しい」と言われ、喜んで引き受けた。そして盛岡地裁の判決である。
その日の夕刊は、社会部の裁判所クラブを中心に防衛庁、民間航空、運輸省、盛岡市局担当の記者、それに、応援取材の遊軍記者の合作となる。しかし、これだけは、1971年7月30日以来、真実を見続けてきた新聞記者の義務として、いや“権利”としてわたしが書くことに決めた。--「本当の被告はだれだ」「航空路再編を放置 防衛庁・運輸省 背を向ける」は、夕刊の1面の3分の1を占める8段の記事になった。
この刑事裁判は1978年5月9日、教官は控訴破棄としたが、訓練生は見張りの能力がなかった、と無罪判決を下した。さらに上告した教官に対し、最高裁は1983年9月22日、見張り義務違反を認めながらも、事故の背景となったずさんな訓練計画などこそ、真の事故原因であるとし、禁固4年を3年に減じ、執行猶予3年とした。
最近は航空機や列車事故の原因について、個人の責任やミスの追及だけに終わらず、その組織の“安全文化”や、事故を生む背景の分析が調査されるようになった。雫石の刑事裁判は、30年前としては画期的なものと言うべきだ。
だが、民事裁判では大きく違っていた。
◆「全日空機に40%の責任がある」と民事裁判
全日空は1973年(昭和48年)2月20日、国を相手に損害賠償請求訴訟を起こした。(損保保険会社と乗員遺族も同時に)。
若狭得治社長は「航空管制の指示に従って飛行している民間航空の定期便に、訓練中の自衛隊機が接触し162人もの生命が奪われた。航空行政に問題があるならば、それも明らかにするべきである。そうでなければ、亡くなられた方々に申し訳がたたない。きっちり訴訟を起こして筋を通すべきである。自衛隊を訴えるということは、国を訴えるということであり、監督官庁である運輸省にも影響が及び、われわれの日常業務にも、さまざまな支障が出てくるかもしれない。それを覚悟して欲しい」と全日空幹部に言っている。
東京地裁の民事訴訟は、若狭社長が懸念したとおりに進んでいった。刑事判決が検察対象で、言わば国対国であるのに対し、民事裁判は国(自衛隊)対民間企業(全日空)である。事故調査報告は「全日空B.727機がジェットルートJ 11Lを外れ、仙台に向かって南下し、自衛隊の訓練空域に飛び込んできた」と主張した。
もちろん、全日空側は反論し、自衛隊側の責任を認めた盛岡地裁の判決もあったから、民事裁判で“負ける”とは考えていなかった。
ところが、1978年9月20日の民事第1審判決は、過失割合が3対2で、全日空側にも40%の責任がある、としたのだ。全日空にとっては“寝耳に水”の驚きと衝撃だった。
◆逆転、また逆転
なぜ、全日空だけでなく、世論も予測しなかった結果になったのだろうか。運輸次官まで務めた若狭社長の懸念を軽く見ていたのかもしれない。それとともに、盛岡地裁判決の翌76年に起きたロッキード事件の影響も否定できない、とわたしは思う。そして7月8日に外為法違反で若狭社長、27日に収賄で田中角栄首相逮捕と続く。--「全日空に40%の責任あり」という民事判決は、その2年後である。
双方とも、東京高裁に控訴した。民事で争点になっている「B.727とF-86Fが接触した地点」について、全日空は絶対の自信を持って新しい証拠を提出した。B.727の乗客のひとりが、進行方向右側の窓から地上を撮影していた8mmフィルムだ。そのフィルムの解析によって、B.727が、どこの上空を飛行していたか、科学的に判定できるのだ。遺品の中にあったこのフィルムは初めから全日空が保管していたが「遺品だし、法廷に持ち出さなくても勝てるだろうと考えていた」という。
--この新証拠が数ヶ月後、「全日空機が訓練空域を飛行していた」ことを立証する逆の鑑定書に変ずるとは、夢にも思っていなかった。(つづく)
●(かじ・そういち)筆者は元毎日新聞社会部編集委員、現航空評論家
別に自衛隊を応援しているわけでも、シンパでもないが、一人の人間としてのこの空自幹部の訴えには心を打たれるものがある。「本当に悪いのは文官、政治の怠慢である」。その思いを彼らは胸にしまって耐えるしかなかった。たとえ正しいことであっても、武官が為政者や文官を非難することはできない。それを真正面から言葉にしてくれた解説に 、真情を吐露したい気持ちを抑えられなかったのだろう。
部活の先輩に制服組がいるのだが、OB会で飲んだ時、こんな事を言っていた。「自衛隊は長らく日陰者だった。以前は、表舞台で脚光を浴びることはできなくても、日陰者の矜持があった。だが、今はその矜持を忘れ、国民に支持されているからというおごりにつながっている」
(鍛治信太郎)