第23回 刑事被告人を追放しない事を予言

 1976年7月6日。全日空の若狭得治社長が外為法違反と偽証の疑いで逮捕された。ロッキード事件全日空ルートの贈賄容疑で逮捕できないが故の言わば別件逮捕だ。鍛治壮一はこの日の夕刊に長文の記事を書いた。全日空社員は若狭社長を殉教者(スケープゴート)とみるだろうと。政府と世論の辞任圧力の中で、全日空が若狭社長を追放しないであろう事を予見している。

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若狭社長が逮捕された日の解説

“政治路線”破れた全日空
“田中金権と密着”
「手段を選ばず」日航を追う

 若狭なき全日空など考えられない--これは九千人社員の心情だけでない。六年間の”若狭全日空”をみてきた者は、みな、そう確信するのだ。社長逮捕について、少なくともいま現在、全日空社員は罪悪感を持つまい。殉教者とみるだろう。なぜか。

                       鍛治壮一記者

 若狭以前の全日空のイメージは“親方日の丸”“半官半民”の日本航空に、独力で立ち向かう、若い民間企業だった。
 二十八年創業。政府出資の日航が四発、六十五人乗り、スピード三二〇キロのDC4旅客機(*1)に対しわずか八人乗り、二百四〇キロの双発ダブ機(*2)でスタート。「羽田出発のダブにはお客が二人。ダブが離陸したあと、いきなりワーンとものすごい音をたてて日航DC4が飛び上がる。打ちのめされたやるせない気持ちだった。」と七日、逮捕された藤原らはいう。
 機種でいつも日航に一歩遅れ、やっと対等な旅客機を持つようになった四十一年、ボーイングB727の日本で最初のジェット機大事故を起こした。先発企業に追いつけ、追い越せのスローガンは、たび重なる事故とだぶって、悲社ですらあった。
 創立者美土路昌一、二代目岡崎嘉平太両社長は、その努力と、高い目標にもかかわらず、社の内外に、決して明るいイメージを与えなかった。事故が解決した後も、遭難者の遺族の前に頭を下げる二人の社長の印象は消えない。全日空を生み、育てた二人の社長は、第一に商売人でなかった。苦難の道を歩む社員に、激しい愛社精神とモラールを植えつけたれけど。
 日航の大庭常務が全日空の副社長に送り込まれ、社長となるが、「全日空の連続事故にかこつけ、佐藤首相の圧力とライバルの日航が乗り込んできた」と全日空の反感はたかまるばかり。
 昇格した若狭社長は、すべてを計算していた。運輸次官出身の“天下り重役”だった若狭が、アンチ日航、アンチ政府(佐藤内閣)の姿勢ばかりか、ただちに全日空民族派”の象徴になったのは、この間の事情をヨミ尽くした彼の腕とカンと自信である。
 橋本運輸相(田中派)が口火を切った形の航空再編成は、がぜん、全日空有利に展開する。「国策会社日航は政府に近い」と、常に外野席から批判攻撃側に回っていた全日空は、戦術を大転換し、直接、航空行政の中核、来るべき“田中政権”に密着した。
 ゼロから出発した航空事業は再開十七年目、全日空に限らず「もうかる事業」となっていた。若狭全日空になった四十五年は、前年の実に四〇%も旅客が伸びている。世界に例もない航空繁盛時代だ。八月十一日、全日空は創業以来初めて、一日の乗客三万人突破の新記録を出すのである。
 待望の近距離チャーター便も実現したあと、若狭社長は、田中首相の訪中を控え、日中航空路に全日空参加のため全力投球する。
その競争で全日空日航と対等にみえた。四十七年八月十一日、初の東京-上海テスト飛行は、日航全日空合同。十六日、上海舞踏団を乗せ東京-上海直行も、日航DC8と全日空B727と一緒。例の田中・ニクソンのハワイ会談のあと九月九日、日中訪問のテレビ中継の技術者を、全日空日航より一日早く上海経由で北京へ運んでいる。
 この前後に、ライバル日航は、ニューデリーとモスクワで二つの大事故を起こし、航空局から立ち入り検査を受け、さらに政界は朝田社長の進退問題でゆさぶりをかけた。航空行政に対して、急激に日航の発言権が弱くなったことも、若狭全日空に味方した。
 若狭社長はしばしば「目的のために手段を選ばない」といわれた。この時の全日空は、椎名式(*3)にいえば”はしゃぎすぎ”たのだ。
 社業は伸びる一方。追いつくはずの日航を、給料面では、すでに全日空が抜いてしまった。航空行政も有利に展開しつつあった。そして十月三十日「エアバスロッキードのトライスター」と発表。
 常に機種選定でざん新、すでにロールスロイス・エンジン付きの旅客機を三機種も導入している全日空だ。児玉誉士夫や、政界とのゆ着がなくても、トライスターになった可能性は十分だった。
 しかし、若狭全日空は、権力に接近するため“暴走”した。すべてを計算しつくすような男、若狭がなぜだ。はしゃぎすぎ、でなければ、田中金権政治の体質にある。苦労して地位と栄光の座につき、カネさえ使えば、何ごとも動かせるという金権の魔力である。
 航空事業は利権に“依存”する許認可業務だ。路線をはじめ政府の許認可権は強い。そのコワサを十二分に知る若狭元運輸次官は、強引な政治家対策、運輸省対策を実行した。それを容易にしたのは、田中金権政治そのものだ。

経営陣抜けて大丈夫か安全運航

 「国際線進出の目的は、たんに経営利益だけではない。社員の士気が狙いだ」と若狭社長はいっていた。それだけに、社員のショックははかり知れなく大きい。
 航空会社の至上命令は安全の確保以外にない。
 全日空の歴史は、先発企業、日航との、怨念をこめた企業闘争、経営的に苦しむとき、大惨事を起こしてきた。
 だが、全日空は、四十六年七月の、自衛隊機と空中衝突した不幸な大惨事を別格として、四十一年の連続事故以来。運行体制を強化し、大事故はない。
 問題のエアバス・トライスターも、第三世代のジェット旅客機として、ボーイングT47ジャンボ機とともに高い安全性を誇っている。
 四十一年二月四日、ボーイング727が百三十三人の生命とともに東京湾に消えたとき、記者は羽田にいた。事故直後、「全日空ジェット機は、少しでも早く着くため危険な近道をしている」と毎日新聞が指摘した。それは、パイロットの責任でなく、会社の運行に対するポリシーの問題だった。全日空はまもなく運行方式を他社並みに改めた。今度の田中金権政治への密着は、別の“近道”だったともいえる。
 若狭全日空のトップから部長クラスまで“活動家”が、ごっそり抜けたいま、経営ばかりか安全運航まで危うくするのは、過去の全日空の歴史が証明している。また、これを幸いに、路線や発着ワクで後発企業の東亜国内航空東急グループの力で漁夫の利を狙えば、この危機はさらに倍加する。
 危険な過当競争をセーブする航空行政が、果たして有効に機能するかどうか、きわめて疑問だ。
 いずれにしても、全日空は、この際、至上命令の安全運航に全力をそそぐべきだ。また、それしか、全日空の最大のピンチを切り抜ける道はない。
 いまや、ロッキード事件は、全日空の土台骨までゆさぶってやまない。若狭なき全日空はどうなるのか。

注記(鍛治信太郎)

*1 DC-4 米ダグラス・エアクラフト製。当時の最新鋭旅客機。
*2 ダブ機。英デ・ハビランド製DH-104ダブ。全日空の前身「日本ヘリコプター輸送株式会社」(日ペリ)の主力機。
*3 椎名式 自由民主党副総裁の椎名悦三郎を指す。田中角栄首相・総裁が金脈問題で辞任した後、三木武夫を総裁に指名する”椎名裁定”をした。だが、ロッキード事件が発覚し、三木首相が国会における真相究明に力を入れると、自民党内部で反発が起き、椎名の「はしゃぎすぎ」発言、三木おろし(退陣要求)が始まった。

第22回 明かされた秘密文書の存在 悲願の国際線進出に王手をかけていた若狭社長

 1972年、田中角栄首相によって中国(中華人民共和国)と国交が回復し、日本航空が中国を飛ぶようになると、台湾政府は激怒。日台路線は廃止され、日航は台湾の空から閉め出された。そんな時、全日空の若狭社長は台湾への国際定期便を申請し、世間をあっと言わせた。その駆け引きの裏には誰にも明かさなかった運輸大臣との秘密文書があった事を鍛治壮一はインタビューで明かされた。

書けなかったこと書きたいこと
鍛治壮一
若狭得治社長の全日空(前回より続く)

◆日台路線の申請、そして取り下げ

 なぜ、100人中100人が予想だにしなかった行動に出たのか? 「私は岡崎元社長や広岡さん(朝日新聞社長で全日空取締役)から、絶対に台湾へは飛ぶな、と言われていました。しかし、私は航空会社のビジネスの問題なんです。イデオロギーじゃないんです。と申し上げて日台路線を申請したんです」
 困惑し、怒ったのは運輸省であり、外務省であり、日本政府だった。申請を却下するにしても公聴会を開くなど2、3ヶ月はかかる。それで日台路線再開が遅れれば、国内が混乱するばかりか、日中、日台の外交関係が険悪となる。
 ところが若狭会長は申請の5日後の1975年7月24日、自ら運輸省に出かけて、この申請を取り下げたのだ。
--どういうことなのか。ロッキード事件で保釈中の若狭会長に82年12月10日、霞が関ビル28階の会長室でインタビューした。あまり意味のない質問をしたあと、さりげなく、なぜ日台路線を申請し、すぐ取り下げたのか、と聞いた。

運輸大臣との秘密文書

「ああ、日台路線じゃ、まだ公表されてない事実があるんです」。ひと呼吸おいたあと、若狭会長は高い天井を見上げるようにして話し始めた。「木村睦男運輸大臣と確認書を交換したんです」。彼はほとんどその文書を暗記していた。確認書は問答形式だった。
 若狭-日本航空が100%出資するとはいえ、日航とは別会社に日台路線の運航をさせることは(昭和)45年の“国際定期航空は原則として日航が一元的に運航する”という閣議了解に反している。さらに、新会社が以遠権を行使すると、第二の国際線運航の航空会社になるから、日本アジア航空に以遠権を認めるべきではない。
 木村-日台路線を早期再開するための措置であるから、45年の閣議了解に反しないようにする。
 若狭-日航日航法による国策会社であり、業務の一部を子会社に譲渡すれば日航法上も疑義がある。
 木村-その点、運輸省はとくに注意する。
 若狭-全日空は近距離国際チャーター便運航の技術と経験があり、諸外国にならって、早急近距離国際便を認められるべきである。しかるべく、必要な措置を至急にとって欲しい。
 木村-運輸省としては、できるだけ早い機会に航空の基本政策の見直しを行うことと致したい。

◆“賭け”は成功した!?

「大臣と私は自分の部分をそれぞれ声に出して読み上げました。立ち会ったのは航空局の中村太造局長です」。
この確認書は極秘とされ、その直後の記者会見でも触れられず、航空局と全日空の金庫の中に1通ずつ納められた。
「私はこれでいいと思った。まもなく、全日空が長い間、要望してきた国際定期便が実現すると思いました」
 若狭得治社長の“賭け”と“詰め”は完璧だった。少なくとも若狭社長と、ごく限られた全日空の幹部は、そう確信した。しかし、6ヶ月後、アメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会でロッキード事件が発覚したのだ。

 76年7月8日、若狭社長が外為法違反と偽証の疑いで逮捕された日の毎日新聞夕刊に、「全日空は若狭を見捨てない。スケープゴートとみる」という長い原稿を書いた。航空記者としての私の“権利”でもあった。
 そのとおりだった。保釈されたあとも、政府、世論の多くは、「刑事被告人が全日空の会長にいるのはおかしい。やめさせろ」と非難した。三木内閣の森山運輸相は全日空安西正道社長に強く要請したが、「株主総会が決めることです」と突っぱねた。森山大臣は怒って全日空に越権的なバツを与えた。「近距離国際チャーター便の近距離を逸脱している」と称して、東京-バンコクの運行を取り消しの挙に出た。それでも全日空の社員は屈しなかった。半官半民の日航に対する長い企業間闘争の歴史がそうさせたのだ。それどころか、ロッキード事件の直後を除いて、全日空の座席利用率は伸び続け、82年に日航の58%に対し全日空64%と逆転してしまった。
 ロッキード事件のマイナスを入れても、若狭得治が今日の全日空を築いた最重要な存在の1人であることは間違いない。

(若狭得治の項、了)

KAJI Soichi 元毎日新聞社会部編集委員

第21回 国会で取材への談話を否定した史上最強の天下り社長・若狭得治

1976年2月7日、ロッキード事件の渦中にある全日空の若狭得治社長のインタビューを鍛治壮一は書いた。国会での証言で若狭社長はその談話を否定。その裏にあったのは、

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1976年2月7日、若狭社長のインタビューが載った

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2月6日のインタビュー

--日本の政治家からロッキードにしてくれ、という圧力は?
 正直いって、四十五年秋までは、有力代議士が「なんとかできないか」とか「いま選定作業はどうなっている」という打診はありましたよ。社運をかけた飛行機選びは、そんなことで影響されません。それも四十六年以後は、まったくなくなった。なぜだろうと丸紅に聞いたら「昔のロッキードグラマンの戦いに政治家が登場してマイナスになったから、今回は、一切、手を引かせた」といっておった。むしろ、あとからダグラスの方がいろいろといってきた。

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2月16日、若狭社長が国会で証言する

2月16日、国会での楢崎氏の質問
 楢崎氏 二月七日付の毎日新聞朝刊で、「日本の政治家からのロッキードにしてくれとの圧力がかかったことはなかったか」との記者の質問に対して「四十五年秋までは、有力代議士から何とかできないかとか、いま選定作業はどうなっているかなどの打診はありました」と答えています。一体、この有力政治家とはだれですか。
 若狭氏 四十五年ごろで、随分過去のことですから、はっきりしていませんが、われわれが新機種導入を進めていることは、新聞にも報道されていたわけですから、マスコミや雑誌の人や知人、政界の方からパーティーの席上などで、一体どうなるのか聞かれたことはあるかもしれませんが、どうこういうことはございませんので、そういうことは全くなかったというように申し上げた方がよいかと思います。
 楢崎氏 あなたは記者の質問に対し「正直いって、四十五年秋までは有力代議士から何とかできなかったかとか、いま選定作業はどうなっているか打診をしてきた」と述べている。一体、有力代議士とはだれなのですか。
 若狭氏 私の言葉が足りなかった。そういう事実はございません。

 

 

書けなかったこと 書きたいこと
若狭得治社長の全日空(2)
鍛治壮一

◆第1回、若狭社長単独インタビュー
アメリカで騒いでいるが、どうなっているのか、さっぱり分かりません」という若狭社長に、こっちも、あの手この手で質問を繰り返した。「でも、トライスターがいい、と社長に言う政治家ぐらい、いませんでしたか」
-「そりゃ、いますよ」
「だれですか。名前を聞いただけで、すぐ分かるような政治家ですか。だれですか」
-「とくに、どの政治家というわけじゃない。パーティで会ったときとかに、言われただけだから。とくに、政治家の名前は言えない」
 話題を変えて、ちょっと黙っていると若狭社長は、自分からこういった。
-「ロッキードと言うと、これまで、いろいろ問題になったことがある(F-Xのロッキードグラマン・スキャンダルのこと)。だから(輸入商社)丸紅さんが、すべて私たちにまかせて下さい、全日空は何もしないでいいから、と言ってくれた。それだけですよ」
 翌日の朝刊に若狭社長との会見記を書いた。まだロッキード事件の全容が分からないからぬるま湯につかっているような記事だったと思う。しかし、①名前は明かさなかったがある政治家にトライスターをすすめられたことがある、②丸紅が前面に出て、全日空は積極的に何もしなかった、という2点を書いておいた。
 反応は1週間後の1976年2月16日に現れた。この日、若狭社長は衆院予算委員会に証人として喚問された。質疑応答が進み、野党委員の1人が、毎日新聞を片手に、こう質問した。「あなたは、特定の政治家からトライスターをすすめられたと答えているけれど、この政治家とは、だれのことですか」
-「私はインタビューで、そんなことは言っていない」
 若狭社長は、いとも簡単に否定したのだ。一緒に取材したK記者と顔を見合わせた。否定されたことに対する怒りよりも、事件の真相に迫ろう、という気持ちの方が、はるかに強かった。ロッキード事件のヤマが裾野の方から、少しずつ見えてきたからだ。②のロッキード-丸紅-全日空という図式は、まさに若狭社長の発言どおりだったことは、間もなく明らかになった(*1)。

◆逮捕・保釈、そしてMiG-25

 7月8日、東京地検が若狭社長を外為法違反と偽証(毎日新聞記事と関係のない偽証)で逮捕した。そして7月27日、金権政治田中角栄前首相逮捕へと進んだ。
 起訴から裁判の取材はどの新聞社も司法記者が担当する。あっという間に夏が過ぎ、9月6日、地検はロッキード事件のうちに丸紅・全日空ルートの捜査終了、若狭社長は2ヶ月ぶりに保釈になった。毎日新聞の社会部を中心にロッキード事件取材打ち上げ慰労会や、これから始まる裁判の司法記者激励会が開かれた。だが、私1人は別だった(*2)。同じ9月6日、MiG-25が函館空港に亡命してきたからだ。前首相の逮捕も“晴天の霹靂”だったが、冷戦の緊張高まるなかのソ連最新鋭戦闘機の亡命は世紀の大事件だった。函館、六本木、そして空輸されてた百里基地と、MiG-25を追った。

◆“秘密文書”とは何か!?

 82年(昭和57年)1月26日、東京地裁は若狭会長(社長を辞め会長となった)に懲役3年執行猶予3年の判決を下した。若狭会長に対する全日空のガードは固く、直接取材などできる状況ではなかった。「なぜ全日空のトップに居座っているのか」という批判だけでなく、森山運輸相も「けしからん」と公言する雰囲気だった。ところが、その年の11月、なにかの雑誌に若狭会長の近況が本人の談話とともに載っていた。正式の取材ルートに違いないと考えた。ただにち全日空広報にインタビューを申し込んだ。「どうぞ」という返事に、私の方も驚いたが、今思えば、あの2ヶ月間ぐらい、「沈黙するより、本人が語った方がいい」という全日空の判断、あるいは方針転換があったのだろう。
 私には若狭会長本人に聞きたいことがあった。裁判でも出てこなかったある秘密文書について。
 田中角栄内閣が発足したのが72年7月7日。9月29日に田中角栄首相が訪中して日中国交が回復した。日中航空路にどちらが就航するか? 日航全日空で1年半にわたってもめた。全日空は日中国交再開のため全力投球してきた岡崎前社長、大株主である朝日新聞社が新中国派の関係で、福岡-上海路線で、悲願の国際定期便実現のチャンスとみた。しかし、「国際線は日航1社」という“航空憲法”で日航と決定した。
 だが、74年4月、日中航空協定が成立すると、台湾は激怒して、日台路線を打ち切り、日航を閉め出した。日航は好況の台湾ルートを失ったばかりか、台湾飛行情報区を通過できなくなり、すべての東南アジア線は台湾を遠く離れて飛行するため年間200億円の損失となった。翌75年7月、日台の民間レベルの取り決めが調印され、やっと航空路再開が合意された。
 では、どの航空会社が飛ぶのか。もし、日航が台湾へ就航したら、今度は“1つの中国”を国是にする中国が怒る。結局、日航が100%出資する子会社「日本アジア航空」を作って運輸省に申請した。中国に接近し、アンチ台湾の全日空は、社長としても台湾に手を出せるはずがなかった。
 ところが若狭社長は、世間も全日空社員も、アッというような行動に出た。東京-台北国際定期便を運輸省に申請したのだ。(敬称略)

(つづく、文中敬称略)

鍛治壮一 KAJI Soichi 元毎日新聞社会部編集委員

注(鍛治信太郎)
*1 ロッキード事件には、第18回のスパイカメラで紹介した本命の児玉ルート以外に、丸紅ルートと全日空ルートがあった。丸紅ルートは、全日空が購入する新型機にロッキード社のトライスターが選ばれる事を確実にするため、ロッキード社の工作資金が丸紅を通じて、田中角栄首相に渡ったという疑惑。全日空ルートは、ロッキード社の工作資金が全日空を通じて、政府高官に流れたという疑惑。
*2 「ロッキードの毎日」と呼ばれた毎日新聞は社会部の取材班を中心として事件についてまとめた本を出すが、鍛治壮一は次の事件(ソ連最新鋭機ミグ25札幌亡命事件)で忙しく執筆陣に加わっていない。

 

第20回 社員に歓迎された史上最強の天下り社長・若狭得治

 全日空の元社長・会長である若狭得治に関する連載を3回に渡って紹介する。全日空の二代目社長から懇願されて就任した元運輸省事務次官。普通、天下りというと監督官庁から押しつけられたイメージが強い。ましてや後にロッキード事件で刑事被告人にもなった。だが、全日空は世論の非難の嵐を浴びながらも、政府からの強い辞任要求に応じなかった。その裏には、半官半民のトップ企業・日本航空の後塵を拝し、屈辱を味わわされてきた日陰者企業の意地と矜持があった。

書きたかったこと 書きたいこと

若狭得治社長の全日空(1)

東京湾事故で吸収合併の危機

 全日空の若狭得治社長(後に会長)は今年90歳になった。戦後、運輸省の次官や局長クラスから民間航空の大幹部に天下ったケースは多いが、彼ほど剛腕で切れ味するどい人物はいない。しかも、冷酷ともいえる決断をしながら、情にもろいところさえある。ライバルからは、これほど恐れ嫌われる人は少ないが、味方からは絶大な信頼を得ていた。
 そんな若狭運輸次官が、なぜ全日空入りしたのか、岡崎嘉平太・2代目社長に直接、聞いている。
 若狭が次官に就任した翌年の1966年2月4日、全日空の札幌発羽田行きのB.727が東京湾に墜落して133人が死亡した。日本で起きたジェット旅客機の初めての大惨事だった。そして11月13日、YS-11が松山沖で墜落し、50人全員が死亡する事故と続いた。このとき岡崎社長は日本にいなかった。まだ正式の国交のなかった中国との親善に全力投球していた岡崎社長は貿易交渉の団長として北京にいた。急いで帰国の途についたが、反中国派だった佐藤栄作首相は「社長が北京などに入りびたっているから、飛行機が落ちるんだ」と激怒した。
 当時、政府・運輸省の民間航空に対する権力は絶大だった。路線も運賃もすべて許認可が必要だった。国際会社である日本航空に対し、全日空は純民間会社。「日航は国際線と国内幹線」という“航空憲法”があった。まして佐藤首相は運輸族の強力なボスでもある。羽田沖事故の直後、佐藤首相は若狭次官に「石坂泰三経団連会長、植村甲牛郎日航会長と3人で、航空業界の再編成をするように」と指示した。そのころ第3の航空会社だった日本国内航空東急グループが大株主。佐藤首相と石坂経団連会長の東急寄りは、誰の目にも明らかだった。全日空は連続事故で赤字に転落したが、もっとも経営危機に陥ち入ったのが日本国内航空である。佐藤首相の狙いのなかには日本国内航空救済があった。
 植村日航会長は松尾静磨社長とともに「国内1社制」を主張していた。これに対して若狭次官は「国際線だけでなく、国内線まで1社国策会社にすべきでない」と反対した。これは「海運局長時代に海運業界再編成をした経験からだった」と彼は言う。

◆全社員が若狭派

 若狭次官の反対で国内1社制、つまり全日空日航への吸収合併は阻止されることになった。しかし、事故の責任をとって67年5月の株主総会で辞任した岡崎社長に替わって、森村勇日航監査役全日空社長、大庭哲夫日航運航本部長が同副社長に就任した。佐藤首相“人事”と言われた。「全日空にとって、これほど屈辱的なことはなかった」と、岡崎は、辞任の翌月、勇退したばかりの若狭に会い「全日空の社長になってほしい」と懇願した。高級官僚の民間企業への天下りは法律で2年間禁止されていたため、実現をみなかった。でも、岡崎は若狭をくどき続けた。
 69年5月、日航の送り込んだ大庭副社長が全日空社長に昇格すると同時に若狭が全日空入りして副社長に就任。翌70年5月、金融スキャンダルで勇退した大庭の後をうけて若狭社長が実現する。どの企業にも大なり小なり派閥がある。だが、こうした経緯から、若狭社長に関して全日空内に派閥はなかった。「全社員が若狭派だったのだ」。

ロッキード事件が起きて

 私は毎日新聞社会部で航空担当だった。毎月1回、若狭社長の定例共同記者会見に出席していたが、それ以上の個人的付き合いはない。しかし、2回、単独インタビューをした。
 1回目は76年2月6日。霞ヶ関ビル全日空本社の社長応接室。その4日前、アメリカの上院外交委員会多国籍企業小委員会で、ロッキード社と外国企業の不正取り引き、つまり“ロッキード事件”が発覚した。詳しい内容は不明の段階だったが、その日の夕刊に、ロッキードF-104戦闘機以来の政財界の暗躍から右翼のからみについて、とにかく書いた。警視庁捜査2課(汚職担当)、民間航空、防衛庁を取材してきたから、“当たらずも遠からず”という原稿だった。そして、ロッキードの民間旅客機トライスターを導入した全日空に、ぶっつけ取材しようと、羽田記者クラブの後輩K記者と若狭社長に会いに行った。あらためて若狭社長に自分の名刺を出したのを覚えている。
 若狭社長は「私も驚いているんだ。何が何やら分からない」と、のらりくらりの話が続いた。だが、彼は、あいまいな答えの中で、2つの真実を語っていた。

(つづく、文中敬称略)

鍛治壮一 KAJI Soichi 元毎日新聞社会部編集委員

 

注 1960年代当時、いまの中国(中華人民共和国)はまだ国連に加盟していない。日本が国交を持っている中国とは中華民国(台湾)だった。2つの中国はどちらも1つの中国しか認めない。一方と国交を結べばもう一方から国交を断絶される。西側諸国はその対応に苦慮していた。米中の関係がよくなかった事もあり、沖縄返還に力を注ぐ佐藤栄作首相は親台湾派だった。(鍛治信太郎)

第19回 那覇市長から礼状 思い出の詰まった人間国宝の紅型を寄贈

 今回は最近の話。

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那覇市長からの礼状

 本土復帰前の沖縄に、鍛治壮一は長期出張でよく行っていた。その頃、妻のみさ子は婦人画報の特集で沖縄に紅型という染め物がある事を知り、壮一に欲しいと頼んだ。
 沖縄で知り合った紅型作家・城間栄喜さんに話すと、「白生地を本土から持って来てくだされば、染めることはできます」とのことだった。アメリカの領土だった当時の沖縄には絹の白生地がなかったそうだ。そこで、みさ子の実家に出入りしていた呉服商から生地を買い、沖縄に持って行き、染めていただいた。沖縄から送り返されてきた生地をみさ子は親友の母に仕立ててもらった。城間さんが人間国宝になる前の若い頃の作品だ。

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城間さんが染めた紅型

 この着物ができた当時、沖縄はまだ外国。いまのようにひんぱんに東京に戻ってこられない。沖縄との電話はドル建ての国際電話なので、赴任中、電話をかけたことも、かかってきたこともないという。やりとりは手紙だけの寂しい思いをしていた。
 みさ子が沖縄に嫁いだ同級生への手紙で紅型の事を報告すると、「いま染料の材料になる植物が少なくなって黄色を染めるのは難しいから大切にして」とのこと。それ以後、ここぞという日にしか着ていない。

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黄色の染料は珍しく貴重という

 ある時、壮一の友人がフランス政府から表彰され、勲章の授与式がフランス大使館であり、パーティーに着ていった。日本語が得意なフランスの女性から「黄色のデザインがすばらしく、美しい」とほめられ、誇らしい気持ちになった。「沖縄のビンガタというもので沖縄独特の模様です」と説明した。
 そんな思い出の大切な着物だが、沖縄で生地が手に入らなかった頃の人間国宝の作品で、染料も貴重だから、歴史博物館できちんと保管してほしいと、寄贈を決心した。
 さて、知人に、こんな写真を載せたら泥棒に入られると言われたが、すでに沖縄に送ってしまったので、鍛治壮一の手元にはもうない。残っているのは、航空機の部品とかマニアックな趣味で集めたガラクタばかり。

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写真は、エールフランスのパーティーで、友人の航空評論家・関川栄一さん(右端)からNHK山根基世アナを紹介されたときのもの。

 余談だが、紅型の文字を見た時、ベニガタではなく、ビンガタとなぜ読めてしまうのか、不思議。誰かに習った記憶が全くない。おそらく中学生ぐらいまでに刷り込まれた物事は無意識の中に入ってるのだろう。

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受領書

 

第18回 スパイカメラを「実戦」で使った記者

 カメラマニア以外にはなじみがないミノックスという超小型カメラのメーカーがある。機種名もミノックスだ。長さ10センチのほどの棒状だが、性能は高く、接写もできる。戦前にラトビアで生まれ、第2次世界大戦中、スパイが使ったなどと噂される。愛称はまんまスパイカメラだ。映画「女王陛下の007」や「陸軍中野学校」、テレビドラマ「ミッション:インポッシブル」などにも登場した。
 だが、このスパイカメラを「実戦」で使った記者はおそらく鍛治壮一をおいていないのではないか。
 1976年2月、後に、田中角栄・元首相が逮捕されることになるロッキード事件が発覚した。米航空機メーカー・ロッキード社が旅客機トライスターと対潜哨戒機P3Cオライオンを売り込むため各国の政府高官や政治家などに数百億円の工作資金をばらまいたという事件だ。
 その日本における中心人物がロッキードの秘密代理人である右翼の大物・児玉誉士夫毎日新聞朝日新聞は、ロッキードに児玉を紹介したのは、児玉の通訳を務めていた福田太郎(ジャパンPR社長)で、その後も児玉の通訳として事件に関わったことを同着で報じた。
 当時、防衛庁記者クラブ常駐の編集委員だった鍛治壮一は、「組織暴力の実態」という連載取材を通して総会屋・右翼に強く、航空と防衛に関わる人脈も豊富というかなり稀な組み合わせの得意分野を持ち、ロッキード事件に最も適した社会部記者だったと言える。編集委員はベテランの記者がなる専門のライターで、各社ともそれまでは本社にデンと構えている存在だった。鍛治壮一は、社会部などの部に所属し、取材の前線に出ていき、記者クラブまで担当している新しいタイプの編集委員の先駆けだった。ある原因で経営が傾いていた人材難の毎日新聞ならではの苦肉の策とも言えるのだが。
 全日空のトライスター購入を確かなものにするため、ロッキードが丸紅を通して首相の田中角栄に賄賂を贈ったというのが丸紅ルート。だが、検察が目指していた本丸は、児玉を通して中曽根康弘自民党幹事長に働きかけ、防衛庁にP3Cを買わせたという児玉ルートだ。各社の取材合戦も児玉ルートに集中した。だが、福田太郎は当時、入院中。記者どころか検事の取り調べも思うように出来ない状態。やがて、当の児玉も国会の証人喚問直前に倒れ、自宅から出て来なくなる。

◆「本当にお悪そう」 後輩に叱られる

 そんな中、鍛治壮一は後輩の社会部記者を連れて、病室の福田太郎に独占インタビューをする。以前に、航空関係の取材で面識があり、家族の元に名刺を置いていったら、「あの鍛治さんなら話をしてもいい」と連絡があったのだ。
 病室に入ると、福田は人工呼吸器を付け、息は苦しそう。顔色も悪い。
つい、「本当に具合が悪そうですね」と言ってしまった。後で、後輩から「重病人にあんなことを言っちゃダメじゃないですか」と突っこまれた。昭和の政治疑獄事件では、政治家や関係者が病気と称して入院、面会謝絶になる事がよくある。きっと福田も元気に違いないと思い込んでいた。実際に会ったらマジに重病だったので驚き、つい、率直な本心を言ってしまったのだ。
 面会謝絶の札が付いた病室で話していると、他社の記者がノックする。後輩はここぞとばかりに「他の記者が見張っているから、まだ、出ない方がいいですよね」と、引き延ばし工作に利用する。取材の最中、いよいよ鍛治壮一は持ってきた私物のミノックスを取り出した。普通に撮る時のように顔の位置に持ってきてファインダーをのぞきながらなんてわけにはいかない。腹の位置に両手で構え、福田の目を見ながら、数枚シャッターを切る。
 すると、後輩が「福田さん、写真を撮ってもいいですか」と確認する。「ダメに決まってるだろう」。後で、「何であんな事を言ったんだ、ばれて使えなくなるかもしれないじゃないか」と注意すると、「鍛治さんがうまく撮れてるか分からないから、念のためと思って」。
 独占インタビューはすぐに紙面に載ったが、写真はすぐには載せなかった。ロッキード事件が収束した後、毎日新聞が出した特集本には、「人権に配慮した」的な事が書いてあったが、鍛治壮一の説明は違う。「すぐに載せたら、盗撮がばれてしまう。時間が経てば、あの時かもしれないと思うが、いつ撮られたのか本人も確信が持てなくなるだろ」
 さて、このミノックスは、大学時代から写真サークルに所属していた鍛治壮一が無数に持っていたカメラの1台。特ダネ写真の成功に気をよくした会社が社費でミノックスを買い、記者に持たせるという話になった。「カメラがあれば特ダネ写真が撮れるわけじゃないよ」。鍛治壮一は無邪気に笑った。

第17回 コンコルド搭乗記

 今回は、世界初にして唯一の商業超音速旅客機コンコルドが就航を終えた2003年に書かれた搭乗記。載ったのは40年前。1人あたりの旅行代金に驚かされる。萩尾望都ちばてつやら売れっ子漫画家たちにとってはどうって事もない金額だろうが、サラリーマン家庭でコンコルドに乗りたいからと言ったら離婚と引き換えだろう。

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2003年6月14日、パリ、ル・ブルジェ空港のエアショーで。撮影・鍛治壮一

「書けなかったこと 書きたいこと」

コンコルドリオデジャネイロ

 コンコルドが、まもなく運航を中止する。
 燃料を食う。運賃が高い。そして一昨年の墜落事故と同時多発テロアフガニスタンイラクの戦争。コンコルドにとってマイナスの出来事ばかり。中止と決定して、乗りたい希望者が増えた、ともいう。僕は、PRのため羽田に来日した時と、“世界一周旅行”でパリ-リオデジャネイロコンコルドに搭乗できた。

◆「コンコルドに乗りたーい」。松本零士ちばてつや

 エールフランスコンコルドが、パリ-ニューヨークのほか、パリ-ダカールリオデジャネイロに就航していた1980年夏だった。やはりオイルショックで、パリ-リオデジャネイロ線を運休するという話が出ていた。友人である漫画家の松本零士ちばてつやが、「いまのうちにコンコルドに乗る」と言い出した。「宇宙戦艦ヤマト」や「あしたのジョー」で猛烈に忙しい2人だが、1ヶ月の休みをとって実行すると堅い決意である。僕は、同行取材して「世界一周」の漫遊記を書くことで、毎日新聞社が出張を認めてくれた。当時すでに防衛庁記者クラブ詰めだったから、いまから考えると夢のような話だった。なにしろ、旅行代理店に払った旅行代金が1人250万円だったのだから。

◆猛然と離陸上昇す

 パリまでは日本航空の B.747で。まだ給油のためアンカレッジ経由である。パリで『ポーの一族』『トーマの心臓』など女流漫画家の第一人者、萩尾望都が参加した。「男の人から旅行に誘われたのは初めて」だそう。
 エールフランス085便リオデジャネイロ行きは午後1時出発。3時間も前にド・ゴール空港に着くと、当時は最新鋭の第1ターミナル・サテライトの待合室へ。「コートはここでお預かりします」「シャンペンをご自由に召し上がって下さい」と搭乗前からサービス攻め。
 0時45分に搭乗開始。前から9番目のシートを中心に座ったが、中央の通路をはさんで左右2つずつの4列だから、かなり狭く感じる。0時55分にエンジン始動。50分にはもうコンコルドは動きだし、滑走路に向かった。燃料節約もあるが、フランスのメンツがあるから、混んでいるド・ゴール空港でもコンコルドは優先される。
 1時3分、コンコルドは猛然と大地を蹴るように離陸した。シートの背に体がめりこむような加速度。ストップウォッチで測ったら30秒で機首が上がった。2分後には客室の一番前に付いている大きなデジタルのマッハ計が「M0.47」を示した。
 左に旋回しながら急上昇する。「シートベルトをはずしてもいい」のサインが出たのは7分後だった。

◆音速突破→M2.02の巡航

 まもなくM0.95、M0.96あたりでマッハ計はストップしている。まだフランスの陸上を飛行中だから、衝撃波を出さないため音速以下にスピードを抑えている。そのころも、音速を超えたら「地上のガラスが割れたり、乳牛が乳を出さなくなる。ニワトリが卵を生まなくなる」とコンコルド反対の声が強かった。
 27分後に大西洋上に出た。「これからスーパーソニックに加速します」と機長がアナウンスした。ほとんど加速感はなかったが、マッハ計が1.00を超えた。「グー、グー」とモーターのうなりのような音がする。なぜか、M1.14、M1.15付近でマッハ計が行ったり来たりしている。
 スーパーソニックに加速して3分、M1.50になると、音は低い「ゴーッ」というシンプルなものに変わった。窓は小さいうえ他の旅客機に比べて高い位置にある。もっとも、雲や景色が見えるわけでなく、青黒い成層圏だけなのだ。M1.74あたりでコンコルドは少し上がっていた機首が下がり、水平になったようだ。
 M2.00になったのは離陸50分後である。松本零士が「やったぞ。わしは音速の2倍で飛んでるんだぞ」と叫んだ。マッハ計はM2.02で止まっている。コンコルドの巡航速度なのだ。

◆スチュワーデスのテレパシー

 乗客は約100人。スチュワーデスは2人。「ジャン・パトゥがデザインした制服。美人を選んでいます」とパンフレットに書いてあった。でも、決して若いとは言えないスチュワーデスである。ところが不思議なことに、通路をいくども歩いている彼女たちの笑顔が乗客の1人1人をとらえて放さないのだ。これこそベテラン・スチュワーデスのテクニックかと思ったら、松本零士が「彼女たちはテレパシー、予知能力があるんじゃないか」という。なぜかって。スチュワーデスは3、4席前のお客に食事を配っているのに、何か頼みたいと思う前に、こっちを見てニコリ。心に念じたものを運んでくる。やはり、エールフランスが自社の誇りをかけて選んだスチュワーデスなんだ。それとも搭乗前からシャンペンをサービスした彼女たちの作戦勝ちか? テレパシーを感じたのはわれら男性だけで、テレパシーをテーマに傑作を描いている萩尾望都が「私たちは、ちっとも感じない」というから。
 2時間15分たってスピードダウン。パリをたって、2時間39分でダカールに着陸した。

(つづく)
 
「書けなかったこと 書きたいこと」

コンコルド最後の飛行

 ダカールはアフリカ最西端の砂漠。ものすごく暑い。コンコルドからタラップで降りる時の燃えるような熱気。待合室2階の売店から黒人がドラムをたたいて呼び込みをやっている。いまから70年以上前、『星の王子様』の作家にして飛行家のサン=テグジュペリたちが、フランスのトゥールーズからカサブランカダカール、さらに大西洋を越えて南米まで郵便飛行を敢行したルートだ。

◆25分でマッハ2.02

 給油を済ませ、1時間後、コンコルドダカール空港を離陸した。ダカールからは、すぐに大西洋上だから、ただちにスーパーソニックをめざした。10分たってM1.00。シートベルト解放のサインはM1.09。25分後に巡航速度M2.02に達した。食事はランチともオードブルとも言えない中途半端なものが出てきた。ただし、キャビアが1カンずつついている。松本零士は「わしゃ嫌いだよ。千葉さん食べてくれ」。「もったいない、もったいない」とちばてつやはビスケットに2人分のキャビアを盛り上げてパクパク。そのうち「窓ガラスが熱くなってきた」と松本零士がさわっている。そんなことないはずなのに。「ムッシュ・マツモトどうぞ」とスチュワーデスが呼びにきた。東京のエールフランスコクピット見学を頼んでおいたが、許可するかどうかは機長の判断だと言われた。

◆ギロチン台のコンコルド

 怪鳥のクチバシのような機首だから、やはりコクピットは狭い。それでいてDC-8や B.727並みの計器類の数があるから、左右の“壁”にそって後方までコクピットがきている感じ。とくに右側の航空機関士のパネルがギッシリと印象に残った。狭い空間に計器と機械がつまっていて、実験室かコンピュータールームみたい。
宇宙戦艦ヤマト』の作者と知って、機長が「私も絵を描いています」と自作のマンガのコピーをさし出した。エールフランスコンコルドがギロチン台にかかっている。断頭台のボタンは、コンコルド擁護と反対の両方の要素でバランスをとり、どうにか押されずに済んでいるところ。反対は航空燃料(石油)を減産して、値上げしているアラブの王様やリーダーたち。それに、自分たちのSSTを中止したためコンコルドに反感を抱いているアメリカのロビーストたちもギロチンのボタンを押す側に手を貸している。ソ連SST Tu-144も左側で「どうしたことか」と首をかしげている。……これ以上、オイルショックが続いたら、コンコルドは抹殺される、という焦燥感を描いている。

◆20倍の燃料消費?

 たしかに、コンコルドの燃費は厳しい目で見られていた。コンコルドの乗客は100人でジャンボ機は500人。それなのにコンコルドはジャンボの4倍の燃料を食う。「4×5=20だから、乗客1人当たりで単純計算すると、コンコルドはジャンボの20倍も燃料を使っている」と非難されたものだ。
 コンコルドの運賃は、ファーストクラスの約15%アップだから、かなり高い。乗客のほとんどは「時間をお金で買おう」というビジネス客になるのは当然。当時のパリ-リオデジャネイロ線の座席占有率が63.3%だったから、エールフランスにとっても、かなり、きびしい状況だった。
 コンコルドは英仏共同開発だが、ド・ゴール大統領のいるフランスの方が、何かにつけ、声が大きく、政府の後押しも強力だった。コンコルドははじめ「Concord」で、日本のマスコミも「コンコード」と英語の発音で書いてきた。しかし、完成が近づくや、フランス語の「Con-corde」とeがつき「コンコルド」となった。強調という意味だが、やはり英国の方は気になったようで、1号機のロールアウトで英首相は「最後のeはEuropeの『e』であり、Englandの『e』でもある」とスピーチをしたのを想い出す。

◆「21万6,000円もらったぞ」

 そのフランス政府はわれわれが搭乗する前の1978年1年間に、コンコルドを運航するため3億200万フランの補助金を出している。この1年間のコンコルドの乗客は76,731人だ。乗客一人当たり3,936フランもフランス政府が払ってくれたのだ。1フラン55円だったから日本円で約21万6,000円にもなる。政府の補助金といっても税金だ。「それじゃ、コンコルドに乗るため、フランス国民から21万円以上もらったことになる。得したぞ!!」と松本零士リオデジャネイロ到着は現地時間で午後2時半。所要時間21分だった。
 5月末でエールフランスコンコルドは終わった。
 一昨年のパリの墜落事故があったとはいえ、イラク戦争アメリカの巨大な影の力。やはり、コンコルドの機長のくれたマンガが本当になってしまった。

第16回 計器の記録の謎も覆す 雫石事故の逆転勝訴

 ANAB727航空自衛隊の戦闘機が空中衝突した雫石事故の民事裁判。窓から地上を写した乗客の写真の謎は解けた。だが、「衝突地点は訓練空域だった」とする国はもう1つの根拠を主張していた。空中に定められた飛行経路(航空路)は、主に、航空用の無線施設(VORとNDBの2種類)同士を結ぶ幅のある直線の連なりでできている。無線施設から次の無線施設への方向を表す方向表示器の角度が、本来の航空路(ジェットルートJ11L)ではなく、訓練空域を通るルートを飛んでいたことを示す値だというのだ。

 

続・書けなかったこと 書きたいこと
第16回雫石裁判の波乱万丈その4―コロンブスの卵で逆転勝訴

鍛治壮一

 

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ANAボーイング727の飛行経路(実際の経路と国側の主張)

◆推論は正しかった

 ボーイング727機の気圧高度計と実際に飛んでいた高度は違うのだ。窪田陽一の計算では約600m高い。
 全日空と国側が、それぞれ写真分析を頼んだ2つの航空測量会社も気圧高度計の8,500mを入力した。こんな基本的なデータの差に、事故調査委員会も民事裁判書も気がつかなかった。と言うより、そこまで突きつめて考慮する必要のないケースばかりだった、と言った方がいいだろう。
 しかし、全日空の窪田陽一は「右窓から撮影すれば右に引っ張られる」「727機の航跡が2本になってしまう」などと非科学的な推論を続けた。「窪田さんの言うことはよく分からん」と呆れ顔の法務部の仲間を前に、自分で727の定期便に乗って実験までしてしまう。―そして推論は正解だった。

◆「コロンブスの卵ですよ」

 当時の窪田陽一の言動を知る数少ない仲間は「彼はネバーギブアップの男だからだ」と言う。ダメだと諦めず、また続けるのだ。
 窪田本人は「コロンブスの卵ですよ」と謙遜する。気圧高度計と実高度の違いに気がつけば、遠まわしの推論や実験は必要なかった。でも“権威ある”国も裁判所も気がつかなかったのだからコロンブスの卵で、コロンブスの窪田陽一は偉い。

◆2つの計器が205°のナゾ

 もう1つ、国側と対決しなければならない難問があった。
 国は「全日空の727機が函館NDBからヘディング183°で松島NDB、さらに208°で大子NDBに向かうジェットルートJ11Lを飛ぼうとしていない」「函館NDBからヘディング186°で仙台VORを経て205°で大子に向かうコースを飛行しようとした」と主張してきた。その証拠として持ち出したのが事故調査報告書に出てくる墜落した727から押収されたアナログの方向指示器である。「機長側と副操縦士側の計器の針が、同じく「205°」を示している。これは仙台VORの次の方位205°である。360°円形アナログの方向指示器が、同じ方向を示すことは確率的にみても偶然とは言い難い。パイロットたちが、意図的に仙台VORから次のヘディングをセットしたに違いない。つまり727はジェットルートJ11Lではなく、函館NDB→仙台VOR→大子NDBを飛行しようとした証拠である」。もし、この国の主張が認められれば727機は函館-仙台間のコースで自衛隊の訓練区域上空を通過して空中衝突したことになってしまう。

◆写真の数字は正しくなかった

運輸省の事故調査で押収された方向表示器の目盛りが「205°」である。民事裁判で、どう反論していくのか? これまた、全日空の訴訟対策チームは頭を抱えた。「そんなバカなことがあるもんか!!」と、ふたたびネバーギブアップの窪田陽一が、国側の2つの計器が同じ数値の確率論に挑んだ。
 丹念に事故調査報告書を読み直した。何度も、何度も。そして、不思議なことに気がついた。
「報告書に出てくる数字は『0』と『5』が多い。なぜなんだろう?」。―そして“非現実的な推理”で証拠物件の写真と報告書に記されている数字を見比べた。
「数字の切り捨て、切り上げが、同じになるはずがない計器の指示を生んだのた!!」
 つまり、21や22は「20」。26や27は「25」に切り下げ、28や29は「30」に切り上げる。このやり方で写真の数字を読み取れば、末尾が「0」か「5」になるケースが多くなるのだ。
 これまた、国も全日空も事故調も気がつかなかった盲点だった。
 窪田が実際に2つのアナログ計器の写真を見直すと、同じ「205」と言っても「204」と「207」だったのだ。

◆逆転勝訴

 東京高等裁判所で第2審判決が平成元年5月に出た。
 205°の件は国の主張が否定された。乗客が進行方向右窓から撮った写真解析について、窪田陽一の説明が通った。しかも、彼は裁判で正式の補佐人に指名され、法廷で尋問も許されることになったのだ。
 第2審判決では、727機の飛行高度について「少なくとも実高度と気圧高度計の指示高度との間に、約500mにも及ぶ顕著な差があって、その差は無視し得ないもので補正を要すると言うべきものである」として、国の主張する訓練区域上空での衝突を否定した。
「過失割合は2対1」。さらに第2損害として請求していた営業損害も認められたのである。
 民事裁判の第1審で「全日空対国の責任が4対6だったものが1対2になった」。それだけでなく、営業損害が認められたことで、全日空は保険会社に26億7,000万円を返還することもできた。事故当時支払われた保険金は25億円弱だった。1ドル360円から145円へと円高になっていたので、返還額は額面以上に大きかった。雫石事故から16年目の夏である。(雫石事故の項終わり。文中敬称略)

※NDB:無指向性無線標識
VOR:超短波全方向式無線標識

●(かじ・そういち)筆者は元毎日新聞社会部編集委員、現航空評論家

第15回 右の窓から写真を撮ると訓練空域に引っ張られる? 雫石事故の”オカルト現象”

 全日空の旅客機と航空自衛隊の戦闘機が岩手県雫石上空で衝突した事故。ANA自ら証拠として裁判に出した乗客のフィルムが「衝突地点は訓練空域だった」という国の主張を裏付けそうになった。絶体絶命の不利を大逆転する発見は「右の窓から写真を撮ると機体の位置が訓練空域に引き寄せられる」という”オカルト現象?”だった。

続・書けなかったこと 書きたいこと
第15回雫石裁判の波乱万丈その3―引っ張れる実験をやろう
鍛治壮一

◆「左窓から撮った写真が欲しい」

 何枚も何枚も図を描いているうちに、窪田陽一はふと思った。「もしかしたら、(進行方向)右窓から撮ると、右に引っ張られるのではないか? 実際は被写体から24km離れてB.727が飛んでいるのに、20kmしか離れていないことになるのではないか?」
 窪田の思いは、さらに膨らむ。「もしそうなら、左窓から撮れば左に引っ張られるだろう」
 しかし、事故機B.727の左側の窓から、下界を撮った写真など存在しない。ダメか!?
「いや、待てよ。右や左に引っ張られるという自分の仮説を証明すればいいのだから、事故機から撮影したフィルムでなくてもいいのだ。同型のB.727で飛行して、左右の窓から同時に撮影してみれば、自分の疑問が解けるかもしれない」
 早速、窪田は対策会議を招集して、図を示しながら説明した。みんな不思議そうな顔をして聞いているだけ。「そんなこと、あるはずがない」と思う。
 窪田の“実験”に賛同したのは若い法務部員だけ。その彼も「ダメもとですから」と言う。窪田は「ダメじゃ困るんだよ」と、仮説の実施場所と日時を決めた。
 B.727が飛行しているルートで、左右の目標物が明確に特定できるところ。飛行高度は事故機が巡航していた28,000ft(8,500m)か、それに近いところがいい。この条件を満足するのは、名古屋上空を飛行する東京-福岡線と東京-松山線だった。
 1983(昭和58)年6月2日、全日空253便福岡行きのB.727機は窪田の願いを乗せて13時21分、羽田を離陸した。“実験”は6ヶ月にわたり繰り返された。

◆B.727の航跡が2本になった!!

そして、事故機と同じように進行方向右側の窓から写真を撮り、同時に左側からも地上の写真を撮った。測量会社に分析してもらったら、窪田の仮説どおりになったのだ。

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 理由はわからないが、図のように右窓から撮ったら、右へ“引っ張られ”、左窓から撮れば左へ“引っ張られ”る。
 つまり、B.727の飛行コースは図のAとBの2本できてしまった。
 AコースとBコースの距離は数kmはある。なんで、こんなことになるのだろう。と、あきれている先輩や同僚が多かったに違いない。でも、窪田は「どうしてだ?」「どうしてだ?」と考え続け、いろいろ図(ポンチ絵)を描いていた。「AとBの間にB.727が飛んでいることにならないとおかしい」「それは、どういうことなんだ」。―そして、ハタと気がついた。

◆気圧高度計の“落とし穴”

 事故機のB.727は高度28,000ft(8,500m)を巡航していた。これは国も事故調査報告書、裁判所も争いがなく、双方が依頼した航空測量会社も、同じ数字をコンピューターに入力している。
 この数字(高度)が、おかしいのではないか?「28,000ftは真の飛行高度じゃないんだ。航空機は気圧高度計を使って飛んでいる。28,000ftにセットすると、その標準大気の気圧は(329,326ミリバール)のところを選びながら飛行する。空気の密度は、その日によって違ってくるはずだ」
 この瞬間、窪田は理工系進学を目指していた高校時代に戻ったのかも。富山県桜井高校2年のとき、ガガーリンが初めて宇宙に飛び出した。窪田少年はガガーリンのロケットが、どのくらいの速度なら地球の重力圏を脱出できるか、と教室で計算した。「秒速8kmだ」と同級生に言うと、「1秒間に8kmなんて、そんな速さになるわけがない」と、みんなにバカにされたことがある。
 さっそく、事故当日の大気圧について函館、仙台の気象台に問い合わせ、数値をもらった。あとは数学の比例を使って計算すればいい。誤差はあるだろうが、概算すると、8.500mではなく実際の飛行高度は9,100m。約600m高いところを飛んでいたことをつきとめた。

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 窪田の頭の片隅にあった「B.727はAとBの間の、もっと高いところ(C点上空)を飛んでいたのでは?」という“夢”は正夢だったのだ。

(つづく。文中敬称略)

●(かじ・そういち)筆者は元毎日新聞社会部編集委員、現航空評論家

第14回 雫石事故の真相 衝突は訓練空域でない 科学の間違いへの挑戦

 民間旅客機と自衛隊の戦闘機の空中衝突で162人が亡くなった雫石事故。「速度の遅い自衛隊機に速度が速い民間機が追突したのだから民間機の方が悪い」という論理がいかにバカげているかは以前に書いた。さすがにまっとうな知性があればこの理屈は無理だと分かる。そこで、民間機の方が訓練空域に入ったから悪いというもう少し賢い理屈で擁護しているのを見かける。衝突地点が民間機の飛行ルートだったのか、訓練空域だったのか。民事裁判の最大の焦点だ。ANAがいかにして国の間違いを証明したか。

 

続「書けなかったこと 書きたいこと」第14回 雫石裁判の波乱万丈・その2--科学に挑戦する男
鍛治壮一

 

ボーイング727が訓練空域に飛び込んできた

 

 全日空機が民事訴訟2審の東京高裁に提出したフィルムとは……。乗客の1人が進行方向右の窓から8mmカラーフィルムで約30分撮影したもの。千歳空港から始まり、函館郊外、青森市付近、十和田湖も写っている。
 B.727機は高度28000ftを水平飛行している。撮影されている地上の建物や橋などが、どのように写っているかを解析すれば撮影位置を求められる。特定できる被写体が3点以上あれば、そこからカメラ、つまりB.727までの距離がわかる。その結果、下を撮っているカメラの俯角も分かる。
 全日空はK航空測量会社に8mmフィルムによる航跡の解析を依頼した。結果は事故調査報告書の「函館NDB通過後は、ジェットルートJ-11Lを飛行して松島NDBに至る経路となる」という推定を裏付けるものとなった。
 初め驚いたのは国側だった。「なんで、いまごろ、これを出してきたんだと思い、裁判所に、この鑑定書の再分析を申し入れた。この要請は容れられ、国が別のA航空測量会社にフィルムの解析を頼んだ。結果は B.727がJ-11Lより大きく西に外れ「訓練空域でF-86Fと衝突した」という国の主張を裏付けるものになってしまった。

 

◆失意、落胆、絶望のなかに1人の男が

 

 今度は、全日空がビックリ。あらためて自分たちが依頼したK社に、もう一度調べてもらった。なんと、国の解析とほぼ同じ結果になってしまった。「私たちはマニュアルで解析しましたが、あっちは最新のコンピューターを使ったので、もっと正確なB~C間の距離を割り出したのです」と言う。--まさに青天の霹靂とはこのことだ。
 全日空で裁判を担当しているのは法務部である。技術的なサポートに総合安全推進委員会が加わっている。部員一同、悲痛な面持ちで、連日、対策会議を開いた。「あのフィルムを提出しなければよかった」、「もともと自衛隊は戦うための航空測量の専門家たちがいる」、「このままでは訓練空域にB.727のほうが飛び込んで衝突したことになり、責任は全日空に押しつけられてしまう」
 法務部の担当者全員が打ちのめされ、シュンとなっているなかで、1人だけ違っている男がいた。窪田陽一部員、1941年生まれの38歳である。
 彼は全日空に入社後、1975年から法務部に勤務となり、翌76年、ロッキード事件が発生すると同事件の訴訟対策チームの一員として、別室につめていた。事件の1審判決が出て、若狭社長の控訴審の準備が一段落した83年春、法務部に復帰した。
 彼は、当時は数少ない東京大学出身だが法学部。科学的に国側の再鑑定書が正しいとされたのに、「科学に挑戦してみよう」と考えた。どこか間違ったところがあるから捜し出せ、というなら分かるが、この場合は、正しいというものから誤りを捜し出そうというのだから、普通の思考ではない。理工学部出身とか、技術者、科学者じゃないからこそ、「僕は科学に対して先入観がない。科学に挑戦してみる」という発言になった。
 もう1つ「仲間(事故機のパイロット)が少しの近道をするために訓練空域を飛行するはずがない」という強い気持ちがあったと後述している。--しかし、窪田の言葉に期待する法務部員は1人しかいなかった。当然だと思う。

 

◆窓にレンズ効果があるはずだ!

 

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 窪田は毎日、図のような絵を何枚も何枚も描いては考えていた。そんなある日、新聞夕刊に「水入りのグラスがレンズとなり、太陽の光で出火」という記事が出ていた。「これだ、 B.727の客席の窓がレンズ効果を及ぼし、解析に影響したに違いない」。すぐに窓の実物模型を作り、東京工芸大学で実験を重ねてもらった。
 その結果、300mの解析誤差があることが証明された。窪田はがっかりした。「先生、300mでは足りません。3kmとか、4km必要なんです」。解析した塩見教授の「なにを落胆しているのです。測量の世界で300mの誤差を突き止めるのは大発見なんです。素人のあなたが発見した人ですよ」という慰めの言葉も、窪田には無駄だった。
 彼はまた、暇さえあれば解析のことを考え、描いた図面は数十枚にもなった。そして、図のような絵で、 B.727(A)は右の方へ引っ張られるのではないか?

 “引っ張られる”とは、なんて非科学的な表現だろうか。この“非科学”が、やがて問題を解くカギになろうとは……。
(つづく。文中、一部敬称略)
●(かじ・そういち)筆者は元毎日新聞社会部編集委員、現航空評論家

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