第22回 明かされた秘密文書の存在 悲願の国際線進出に王手をかけていた若狭社長

 1972年、田中角栄首相によって中国(中華人民共和国)と国交が回復し、日本航空が中国を飛ぶようになると、台湾政府は激怒。日台路線は廃止され、日航は台湾の空から閉め出された。そんな時、全日空の若狭社長は台湾への国際定期便を申請し、世間をあっと言わせた。その駆け引きの裏には誰にも明かさなかった運輸大臣との秘密文書があった事を鍛治壮一はインタビューで明かされた。

書けなかったこと書きたいこと
鍛治壮一
若狭得治社長の全日空(前回より続く)

◆日台路線の申請、そして取り下げ

 なぜ、100人中100人が予想だにしなかった行動に出たのか? 「私は岡崎元社長や広岡さん(朝日新聞社長で全日空取締役)から、絶対に台湾へは飛ぶな、と言われていました。しかし、私は航空会社のビジネスの問題なんです。イデオロギーじゃないんです。と申し上げて日台路線を申請したんです」
 困惑し、怒ったのは運輸省であり、外務省であり、日本政府だった。申請を却下するにしても公聴会を開くなど2、3ヶ月はかかる。それで日台路線再開が遅れれば、国内が混乱するばかりか、日中、日台の外交関係が険悪となる。
 ところが若狭会長は申請の5日後の1975年7月24日、自ら運輸省に出かけて、この申請を取り下げたのだ。
--どういうことなのか。ロッキード事件で保釈中の若狭会長に82年12月10日、霞が関ビル28階の会長室でインタビューした。あまり意味のない質問をしたあと、さりげなく、なぜ日台路線を申請し、すぐ取り下げたのか、と聞いた。

運輸大臣との秘密文書

「ああ、日台路線じゃ、まだ公表されてない事実があるんです」。ひと呼吸おいたあと、若狭会長は高い天井を見上げるようにして話し始めた。「木村睦男運輸大臣と確認書を交換したんです」。彼はほとんどその文書を暗記していた。確認書は問答形式だった。
 若狭-日本航空が100%出資するとはいえ、日航とは別会社に日台路線の運航をさせることは(昭和)45年の“国際定期航空は原則として日航が一元的に運航する”という閣議了解に反している。さらに、新会社が以遠権を行使すると、第二の国際線運航の航空会社になるから、日本アジア航空に以遠権を認めるべきではない。
 木村-日台路線を早期再開するための措置であるから、45年の閣議了解に反しないようにする。
 若狭-日航日航法による国策会社であり、業務の一部を子会社に譲渡すれば日航法上も疑義がある。
 木村-その点、運輸省はとくに注意する。
 若狭-全日空は近距離国際チャーター便運航の技術と経験があり、諸外国にならって、早急近距離国際便を認められるべきである。しかるべく、必要な措置を至急にとって欲しい。
 木村-運輸省としては、できるだけ早い機会に航空の基本政策の見直しを行うことと致したい。

◆“賭け”は成功した!?

「大臣と私は自分の部分をそれぞれ声に出して読み上げました。立ち会ったのは航空局の中村太造局長です」。
この確認書は極秘とされ、その直後の記者会見でも触れられず、航空局と全日空の金庫の中に1通ずつ納められた。
「私はこれでいいと思った。まもなく、全日空が長い間、要望してきた国際定期便が実現すると思いました」
 若狭得治社長の“賭け”と“詰め”は完璧だった。少なくとも若狭社長と、ごく限られた全日空の幹部は、そう確信した。しかし、6ヶ月後、アメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会でロッキード事件が発覚したのだ。

 76年7月8日、若狭社長が外為法違反と偽証の疑いで逮捕された日の毎日新聞夕刊に、「全日空は若狭を見捨てない。スケープゴートとみる」という長い原稿を書いた。航空記者としての私の“権利”でもあった。
 そのとおりだった。保釈されたあとも、政府、世論の多くは、「刑事被告人が全日空の会長にいるのはおかしい。やめさせろ」と非難した。三木内閣の森山運輸相は全日空安西正道社長に強く要請したが、「株主総会が決めることです」と突っぱねた。森山大臣は怒って全日空に越権的なバツを与えた。「近距離国際チャーター便の近距離を逸脱している」と称して、東京-バンコクの運行を取り消しの挙に出た。それでも全日空の社員は屈しなかった。半官半民の日航に対する長い企業間闘争の歴史がそうさせたのだ。それどころか、ロッキード事件の直後を除いて、全日空の座席利用率は伸び続け、82年に日航の58%に対し全日空64%と逆転してしまった。
 ロッキード事件のマイナスを入れても、若狭得治が今日の全日空を築いた最重要な存在の1人であることは間違いない。

(若狭得治の項、了)

KAJI Soichi 元毎日新聞社会部編集委員