第6回 カメラマンをヘリから蹴落としたと濡れ衣 最後の日本兵救出取材の苛烈な戦い(下)

 取材合戦の最終話。

 

航空・防衛記者ひと筋40年 カジさんの名物コラム復活!
続「書けなかった事、書きたいこと」
第12回 勝ち取った小野田少尉取材戦争

◆「ベルトを締めろ!!」
「あれだ、あれしかない!!」。1機だけ別に遠く離れて着陸したUH-1イロコイに向かって加藤カメラマンと走った。あのヘリは、連絡に戻ってきただけで、山頂へ行かないかもしれない。でも、あれに賭けるしかない。5、6m前に1人走っている。
 イロコイのシートに飛び上がるようにして乗り込む。「ベルトだ。ベルトを締めろ」と叫んで加藤君と並んで座った。
 あっという間に機内は天井まで空間がなくなった。膝の上にテレビカメラや三脚が投げ込まれる。「もう少し、つめろ」と、シートベルトなしで割り込む者、われわれの脚の前の狭い床に腹ばいになるAカメラマン。
 パイロット2人の他に定員は7人だ。空軍兵士が、ベルトを締めていない者を引きずり降ろした。後から「カジ君は、カメラマンを蹴落とした」と言われたが、そんなことはない。
 6時18分、ヘリが離陸した。「よし、いくぞ」。加藤君と肩をガツンとぶつけ合った。嬉しかった。この一瞬のためなら、何を犠牲にしてもいいと思った。
 上昇。目指す山頂のレーダーサイトの白いドームだけが夕日に、わずかに赤く染まっている。それも、ほんの1分か、30秒。ジャングルに夕暮れはない。足の下で灰色から、すぐに黒い闇に包まれていく。
 7分後、レーダー基地に降りる。軍用トラックで将校宿舎前へ。誰がついたのか、そこで分かった。私たち2人と共同通信のY君ら日本人記者は6人だった。

◆メモしまくる2時間半余

 小野田少尉は、午後3時過ぎから自分の軍刀を捜しに、元上官の谷口少佐やフィリピン空軍らとヘビ山へ行って、まだ戻っていない。しかし、小野田さんと接触した兄の敏朗さん、厚生省の柏井団長と井上部員、空軍曹長がいた。私はただ、もう彼らから聞きまくり、メモ帳に殴り書きした。そのうち谷口元少佐と空軍のカバワン少佐がひと足先に戻ってきたから、小野田さんの様子、住んでいた場所、どうやって生活していたのか、聞けることは全部、剥ぎ取るように質問を繰り返した。気の早いものは、もう原稿をまとめている。でも私は、例によってメモ帳の片面だけに、大きな字で書き続けた。
 10数名の記者が、大型の四輪駆動車で山頂までやってきたのは3時間くらい経ってからだった。それでも20~30人くらいは乗れないで下に残っているという。

◆「嬉しかったことはない」

 9時15分、小野田さんが暗がりの中からわれわれの前に出現。ラングード空軍司令官に軍刀を渡した。「武装解除」という儀式だ、と言う。
 記者会見は、占部日本大使、柏井団長らに挟まれたかたちで小野田少尉が座った。ロスパニオス大佐が、始めに小野田さんを“発見”した鈴木青年を紹介すると拍手が起き、重苦しい空気がいくぶん和らいだ。
 テレビのライトやカメラの絶え間ないフラッシュにも小野田少尉は、眉ひとつ動かさず不動の姿勢をとった。--2年前、グアム島で最初に横井庄一日本兵に会ったとき、私たちを「日本人かどうかわからない」と言った。それとは小野田少尉は異質なもの、別の世界のものと、すぐに気づいた。
 命令、任務、判断……という答えが返ってくるなかで、小野田さんが感情をナマで見せた。
「もし、あるとすれば、一番嬉しかったことは?」という質問。彼は、しばらく答えなかった。そして、「29年間、嬉しかったことは今日のいままでありません」と吐き出すように言った。情けなかったに違いない。こんなことを聞かれて。
 両親のことを尋ねたとき、小野田さんはうつむいた。
「自分の戦死を予期してあきらめてくれている父や母親が、それでも自分の無事の生還を願う精神的なハリが長生きさせてくれたんだと思います」。言葉はポツリポツリだった。ずっとこらえていた感情を抑え切れないようだった。
 フィリピンの記者が途中で「軍刀を抜いて見せてください」と注文した。ツカに白いタオルが巻いてある。このとき小野田少尉は5、6人おいて後方にいる谷口元上官の方を向いて、何か懇願するような表情を見せた。「いいから、いいから」と谷口元少佐が目で合図する。ボロボロに刃こぼれしている軍刀を恥じたのだ。
 10時20分、ラングード司令官に促されて小野田さんは席を立ち、脱いでいた戦闘帽をふたたび被って、挙手の敬礼。カメラが止むまで不動の姿勢を崩さなかった。この夜、小野田さんは52歳の誕生日(戸籍上は19日だが、本人も兄も陸軍記念日の5月10日だという)。

◆5時間、電話口で吹き込んだ原稿800行

 さあ、一刻も早くマニラに戻らねば。新聞の朝刊は時間切れでも、夕刊の早版から原稿をたたき込まねばならない。この取材の最後の戦い。“戦果”は、それによって決まる。
 3台の大型軍用トラックに報道陣満載でガタガタ山道を下りる。満月から2夜経った月が冷たく、われわれだけを照らす。ジャングルは月の光を吸い込んだように真っ暗であった。揺れるトラックの荷台の上で、原稿にする項目を考えた。
 本記のほかに、小野田さんの「住居」「食料」「1日の生活」……といったように。
 日が変わって5月11日午前0時50分、ルバング島の滑走路にタイマツが焚かれ、C-47輸送機は飛び立った。1時22分、マニラに到着。ホテルに着いたとき、疲れがドッと。だが、まだ終わりではない。
 3時(日本時間午前4時)から電話で原稿を送り始めた(*5)。メモ帳を1枚ずつ切り離し、テーマごとにベッドと机の上に並べた。例によって、国際電話が通じるまでに原稿の前文だけメモした。「この長い間、楽しいことは何ひとつなかった」--ただ、ひと言の命令を待って30年間。次々に倒れてしまった戦友……。
 そしてメモをカルタのように拾いながら、1行も書いてない原稿を“勧進帳”式(*6)に文章にしながら読み続けた。原稿の送稿が終わったのは午前8時だった。「会見」「所帯道具」「武器」「戦友の死」「隠し倉庫」……。800行を超えたことは日本に帰って夕刊を見たときに知った。質量ともに朝日や読売新聞を凌駕した。ただし、クレジットは「マニラ11日 本社特派員団」だ。「サンデー毎日編集次長 鍛冶壮一」とするわけにはいかない。前にも後にも唯一、私の署名のない記事となった(*7)。   (小野田少尉の項、終わり)

●(かじ・そういち)筆者は元毎日新聞社会部編集委員、現航空評論家

脚注(鍛治信太郎)

*5 この時代、インターネット、e-mailがないのはもちろん、FAXすら日本でさえまだ一般的でない。遠隔地からの原稿は電話や無線機による口頭で送っていた。
*6 勧進帳 新聞記者用語。原稿を口頭で送る際、あらかじめ書いた原稿を読み上げるのではなく、頭の中にだけある原稿をまるで読んでいるかのように伝える事。歌舞伎の演目「勧進帳」が由来。源頼朝の追求を受けて奥州に逃れる義経一行が「安宅の関」を通る際、関所を守る役人から義経ではない証拠となる勧進帳を読んでみろと命じられる。武蔵坊弁慶は白紙の巻物を勧進帳だと言って読み上げるフリをする。義経記などを元にした能の「安宅」から歌舞伎となった。だが、このエピソード自体は義経記などになく、能の作者が勝手に話を盛ったらしい。
*7 当時の日本の新聞では、一般の記事に記者の署名がないのが普通だったが、海外特派員だけは必ず署名を入れるのが明治からの習わしだ。現在は、ほぼ必ず入れる(毎日など)、おおむね入れる事が多い(朝日など)、特別な記事にしか入れない(日経、読売など)に分かれる。欧米など日本以外の新聞は署名記事が基本。