第9回 野田秀樹取材の裏で暗躍したのは・・・

 一般的にはまだメジャーではなかった野田秀樹を、なぜ、社会部の鍛治壮一が全国紙の1面で初めて紹介したのか。その裏で”暗躍”したのは妻のみさ子だった。
 みさ子は演劇雑誌か東大新聞か何かで東大の駒場小劇場で活動する「夢の遊眠社」の記事を読んで興味を持ち、本多劇場の「小指の思い出」、紀伊国屋ホールの「瓶詰のナポレオン」などを見に行った。後に、夢の遊眠社の創立メンバーで、制作の中心だった高萩宏さん(現・東京芸術劇場副館長)に会った時、笑い話をしてくれた。「その日初めて会ったお客さんなのにいきなり説教されたんです」。芝居に詳しいみさ子は、まだ素人集団を抜け切れていなかった夢の遊眠社のチケット販売や受け渡しの方法が「なってなくて」見ていられなかったらしい。現場にいた高萩氏にいろいろ言った。それ以来、公演のたびに雑談するようになった。
 1984年、野獣降臨(のけものきたりて)の再演。地方展開など劇団がプロ集団として脱皮する重要な局面を迎えていた。「今回はチケットの出足がよくないんですよ」と高萩氏はなんとはなしにみさ子に言った。大学生が自分たちで作った劇団を苦労して続けている、何とか応援したいものだ。家に帰ったみさ子はふと思いついて、高萩氏に電話した。「毎日新聞の鍛治壮一に取材してもらったら?」。「私の名前は出さずに、大学の後輩のよしみで電話すればいい」と付け加えるのも忘れなかった。自分が糸を引いていると知ったら、絶対へそを曲げると思ったのだ。どう言ったのか分からないが高萩氏は普通に毎日新聞に電話して、普通に鍛治壮一に取材依頼したようだ。大学の後輩と言ったって、教養学科と文学部。ゼミやサークルが同じわけではない。年間3000人から卒業生がいて、年も20以上離れているのに、どこで自分の事を知ったのか、不思議に思わなかったのだろうか?
 毎日新聞朝刊1面のひと欄で野田秀樹が紹介された日、みさ子は高萩氏に「今日載りました」と電話。高萩氏は掲載を知らず、「そうですか。どおりで、今日はチケットの予約が妙に多いなと不思議だったんです」と納得していた。