第7回 朝日に席を譲った優しき後輩 最後の日本兵救出取材の苛烈な戦い異聞

 3回に渡った小野田寛郎元少尉救出取材合戦。一度は輸送機が墜落して死んだ方がマシと絶望し、最後は勧進帳で紙面を埋め尽くす800行を吹き込んだ。この裏話のさらに裏話を鍛治壮一から聞いた事がある。この合戦のクライマックスは小野田少尉(*1)の元に最初に行く軍用ヘリUH-1イロコイの席取り競争だろう。前回にあるとおり、サンデー毎日のデスク・鍛治壮一とカメラマンのほかに、最初に行けた日本の報道陣は4人しかいなかった。10数人の記者が大型の四輪駆動車で着いたのは、小野田さんの会見には間に合ったとはいえ、3時間遅れだった。
 実は、この車に本当は毎日新聞社会部の後輩記者が乗っていた。ところが、乗り損なった朝日新聞の記者に「毎日は先に鍛治さんが行っているから、譲ってくれ」と頼まれ、譲ってしまったという。後で、その話を聞いた鍛治壮一は「君はバカだな。君が譲らなければ、朝日は会見の記事を書けなかったのに」と後輩に言った。
 当時、他社でも、この取材に投入されるクラスの新聞記者で、鍛治壮一の名前を知らない者などいない。もしかしたら、他社には相変わらず「社会部の鍛治さん」と認識されていたのかもしれない。だが、鍛治壮一はサンデー毎日のデスクであって、毎日の鍛治ではあるが、毎日新聞の鍛治でも、社会部の鍛治でもない。
 だから、紙面のクレジットは異例の「本社取材班」なのだ。そんなの見た事ない。普通は本紙取材班か社会部取材班だ。
 前々回にあるように社会部の後輩キャップから「もしもの時は、新聞の記事もお願いします」と頼まれていた。週刊誌の本来の仕事があるから、「サンデーの特集の入れと重ならなければいいよ。でも、重なったらサンデーを優先する」と答えた。当然だろう。運良く、新聞と週刊誌、両方書ける日程になったのだ。
 とはいえ、夕刊を800行埋め尽くすのは常識的には1人でやる仕事ではない。社会部の後輩のデスクやキャップ、若手記者に全面的に信頼されていたのだろう。
 最後の日本兵の初会見という世紀の瞬間に立ち会える切符をライバル紙に譲ってあげた心優しい社会部記者。記者クラブなどで顔見知りだったのかもしれない。もしも、逆に自分の社が誰も現場に行けない状況だったらどれほど上から失格の烙印を押されるか。それを想ったらいたたまれなかったのではないか。だけど、朝日の記者は逆の立場だったら譲らないと思うけど(*2)。そういう朝日や鍛治壮一の方が記者としては正しい。ジャーナリストの使命を果たし、国民の知る権利を守り、ライバル紙に勝つためなら、いくらでも非情になれる。だが、人としてはどうかというと。お人好しは新聞記者に向かない。
 後に、社会部の後輩デスクから「鍛治さんがいなかったら大変な事になっていた」と感謝された。
 いつかこの連載で取り上げるが、鍛治壮一は同期の西山事件で、自分の信念に従い、「あれは知る権利とは言えない」と会社の意向に逆らう発言をした。黙らないので、上からにらまれ、新聞製作部門である編集局の記者から週刊誌へ、デスクに"出世"という形で"栄転"させられた。
 UH-1イロコイに向かってダッシュし、7席しかないシートを確保したあの日。この席が取れたか、取れないかが、記者人生の運命の分かれ道だっただろう。航空記者、マニアとして、イロコイの定員や乗り方を知っていた事も多少は有利に働いたかもしれない。その後、追放された編集局に復帰し、編集委員となり、「ロッキードの毎日」といわれた社会部の特ダネ記者に返り咲く。
(鍛治信太郎)

脚注
*1 姿を現した1974年、小野田さんの帰る帝国陸軍はとうにない。だが、彼は日本が全面降伏した後も部下を失いながら29年間遠い島国で戦い続けたのだ。武装解除の儀式が終わるまでは元少尉ではなく、少尉だったと思う。
*2 先に行った週刊朝日のデスクに全面的に記事を任せて、自分は会見に出られなかったなんて言ったら、上から間違いなく社会部記者失格の烙印を押されるから。読売はむちゃくちゃイイ人ととてつもなく人として間違っている人の両極端なのでどっちに転ぶか分からない。