第5回 墜落して死んだ方がいいと絶望 最後の日本兵救出取材の苛烈な戦い(中)

 週刊誌サンデー毎日のデスクなのに、現地取材班として、新聞の取材合戦に参加した裏話の2回目。
航空機マニアな航空ジャーナリストがC-47やUH-1に絶望を味わわせられる。

航空・防衛記者ひと筋40年 カジさんの名物コラム復活!
続「書けなかった事、書きたいこと」
第11回 絶望、また絶望の小野田取材の“戦争”

◆抜け駆け取材不可能の厳重規制

 戦争が終わって29年。何度も何度も捜索したが行方がわからない。二度も戦死と断定した小野田寛郎少尉が、確実に生きてルバング島にいる。「生きてスパイ活動をせよ」という離島残置諜者の命令を守って戦っていた。鈴木青年とジャングルで会い、「上官の谷口義美少佐の命令がない限り、ここで戦う」と言った。
 今度こそは絶対に救出する、と奮い立ったのは日本政府や肉親だけではなかった。フィリピン政府の名誉にかけても成功させる」とマルコス大統領が、直にフィリピン空軍に特命した。そして、鈴木青年、兄の敏朗さん、谷口元上官だけがルバング島に上陸した。マスコミがルバング島で取材活動すれば、小野田少尉は姿を現さない。私はルバング島への“抜け駆け取材”は不可能と考えた。島は空軍のレーダーサイト基地だし、山頂への軍用道路以外に道らしきものがない。
 接近禁止を破って、漁船を雇って上陸を試みたテレビ会社の記者は、空軍に捕まった。加熱するマスコミに、空軍はやっと約束してくれた。「もし、谷口少佐らが小野田さんを発見したら、マニラに待機している取材陣に連絡する。各社2人ずつ、空軍輸送機で運ぶ」。毎日新聞社は新聞として社会部員とカメラマン、サンデー毎日の私とAカメラマンの4人を第一陣要員として空軍に登録した。しかし、社会部チームのHキャップは、「万一、1人しか小野田さんに会えなかったら、カジさんが原稿を書いてください」と言う。そういうときはそうしよう、と後輩のH君に答えた。

◆絶望!! C-47に乗り遅れる

小野田少尉との接触に成功。ルバング島に渡る記者代表団は、ただちに、ニコルス空軍基地VIPルームに急行せよ」--マニラに来て12日目の1974年3月10日の午後3時、日本大使館ルバング島のレーダー基地から無線が飛び込んだ。われわれのミスで連絡が30分遅れた。予測より早い。すごく早い。夕方なら翌朝、空軍機が運ぶ約束だった。夜間照明のないルバング島は、夜、離着陸できないからだ。それなのに、これは緊急事態だ。
 4時15分、ニコルス空軍基地。ゲートに入るとき、目の前をC-47輸送機が1機、2機、滑走路に向かって進んでいくではないか。3番機のプロペラが回っている。私、加藤カメラマン……、続いて共同通信の2人。駆け寄ると、すぐにドアが開けられ、「危ない。機体から離れろ、どけ!」と軍曹が必死に叫ぶ。
 VIPルームに連れ戻される。その間に30人あまりの記者団が順番を競って並んでいる。「とても乗れない。1社1人にしろ」と広報担当の空軍大尉。「早い者勝ちにしろ」と記者の1人。「そうだ、そうだ」という声が圧倒的。--小野田少尉との最初の会見に遅れたら、すべてはゼロ。これまでの努力が、すべて消える。見送りに来た社会部のHキャップが大きな声で「落ち着くように、あわてないように、みんなに言ってください」
 どうして落ち着けるのだ。先に着いた記者たちが小野田さんと会えたら、記者会見を待つはずがない。この2週間、いや1年半にわたる激しい取材合戦を体験してきた私には、それがわかる。

◆このまま墜落してもいい!

「C-123輸送機を使うから、全員オーケーだ。国際空港側の格納庫まで行け」
 大尉の言葉が終わらないうちにVIPルームの外へ。軍用ジープが通りかかった。大尉が指差しただけで、ジープに20数人がなだれ込む。「ドント・キル・ミー。助けてくれ」。ハンドルの上に押し付けられた伍長が悲鳴をあげる。空軍兵士たちは驚き、ゲラゲラ笑う。
 5時14分、フェアチャイルドC-123プロバイダーはマニラ空港を離陸。米軍供与のかなり使いこなした機体。2、3ヶ所に穴があいていて、ザー、ゴーというものすごい轟音の機内。カメラマンたちが、数少ない窓から下界を撮ろうと、やっきになっている。私も加藤君もチャーターしたセスナ機で、この空を何回往復したことだろう。
 じっと目をつぶり、ただ、最初に小野田少尉に会えるかどうか。それだけで一杯だった。先発のマスコミに1時間は遅れてしまった。「オンボロ輸送機だ。会見に間に合わないくらいなら、このまま墜落して死んだほうがいい」と加藤カメラマンに口走った。自分の飛行機が落ちてもいいとは。本当にそう思った。彼は今でも「あんなカジさんは見たこともない」と言う。
 5時40分、ルバング島上空。モヤと夕日の斜光で島は黄色く霞んでいた。

◆またも絶望のイロコイ

 5時44分着陸。滑走路1本と、そばに堀建て小屋みたいなバラックが2つ。いた。C-47輸送機が3機。バラックの方を見た。
 しめた。地元記者、サンケイ、テレビリポーター、朝日新聞記者たちが牛囲いのように鉄条網を張った中にいる。まだだ。
 夕日が沈むまで、もう何分もない。滑走路の向こうのサンゴ礁の海に、真っ赤な太陽が落ちていく。どうすれば山頂のレーダーサイト基地まで行けるのだろうか。われわれの“戦争”がまもなく始まる。
 6時5分、日没。遥か山頂からヘリの爆音。1機、2機、こちらに向かってくる。「小野田が乗っているんだ」「ここで会見だ」。誰もがそう考え、口々に叫びながら鉄条網の柵に近づいた。カービン銃の空軍兵士が阻止する。
 ベルUH-1イロコイ・ヘリコプターが2機編隊で着陸。回転翼はブンブン回したままなのだ。3機目は、遠くC-47の向こう側に降りた。
 6時15分、指揮官らしい将校が地元フィリピン記者に何やら耳打ちした。それが合図だった。
 柵を破って、ドッと70数名の記者、カメラマンが2機のヘリ目指して殺到していく。私がヘリに近づく前に、ヘリから人間がはみ出していた。絶望!?      (つづく)

●(かじ・そういち)筆者は元毎日新聞社会部編集委員、現航空評論家

 

続きは明日