第8回 演劇はスポーツだを一人歩きさせて野田秀樹を困らせた

 1972年、東京教育大学附属駒場高校(キョーコマ)*1に通う天才が処女戯曲を自作自演。東京大学文科1類(*2)に進学。教養学部キャンパス内にある寮の食堂ホールを改装。1976年、劇団「夢の遊眠社」の拠点となる駒場小劇場が生まれた。
 新聞社で演劇や映画、小説など芸術を担当するのは学芸部(*3)だ。だが、劇評欄でない一般読者向けの欄で、野田秀樹を初めて紹介したのは社会部の記者が書いた1面の「ひと」だった。

野田秀樹
”演劇はスポーツだ”
創立八周年の「夢の遊眠社

 「ぼくは挑発したいんです。芝居をやる者は、スポーツは演劇より低俗で文化的ではないと思っているでしょう。彼らは、うちの芝居を、なんで体を、あんなに動かすんだという。それに対する反論です。激しく動いた果てに静止して、息を押さえて朗々としゃべる技術的高度さを理解しない。いいものを創(つく)ろうとして、はみ出した部分だけをみている」
 東大の学生食堂わきの駒場小劇場で昭和五十一年、夢の遊眠社を結成、自ら脚本、演出、主演して、若者の圧倒的な共感を得た。この一月、紀伊国屋ホールでの「瓶詰のナポレオン」で観客十万人を突破し、いま東京・下北沢の本多劇場で「野獣降臨」(のけものきたりて)を再演中。
 「この芝居で何を言いたいのだ、と聞かれて答えるだけでも、自分は少し、やさしくなったんですね。一九六九年七月、アポロ11号の月着陸という宇宙の側へ漂流した人間と、逆に太古の方へ漂流した人間がいたことに興味を持ったから、と言ってるんです」
 圧倒的な言葉のおもしろさと、素早い展開に、“乾いたマリオネット”“プラスチック製のファンタジー”の賞辞から“難解だ”まで評価はさまざま。
 「べつに劇評をもらうために芝居してるんじゃありませんが、実際にどこのお客さんが足を運び、おもしろいと喜んで帰っていくか、まったく反映していませんね。その点、テレビ番組については評論家もウソはつけない。みんなが観(み)ていますから」
 切符が入手難だというので、社会人当日券電話予約を実施。五月は京都と芦屋で初の地方公演。「うちが芝居をやるとき、いつかその町全体が、祭りになるようになりたいですね」
(鍛治壮一)

 鍛治壮一は、後に読売演劇大賞の授賞式で野田秀樹に会った際、「覚えてますか?」と尋ねたら、「覚えてますよ。『演劇はスポーツだ』と書いた記者さんでしょう。あの言葉が一人歩きして困りましたよ」と言われた。読めば分かる通り、見出しになっているだけで本文には「演劇はスポーツだ」とは書かれていない。通常なら、意を汲んだ整理部編集者が付けた見出し。鍛治壮一が自分で考えてこの見出しにするよう頼んだのかもしれないが。
 俳優の江守徹、劇作家の別役実、演出家の木村光一もひと欄で取り上げていたため、「いつ、学芸に移られたんですか」と嫌みを言われたそうだ。
 ちなみに、野田秀樹に会いに行った当日、朝日ジャーナルに(飛ばされて)いた筑紫哲也も取材に来ていて(*4)、「鍛治さんがこんなとこで何してるんですか?」と不思議がられた。会ったのは同じ日だが、新聞と雑誌では製作の速度が違うので載ったのは先だった。後に書籍にもなった「若者たちの神々」という連載だ。

  もちろん、演劇界ではすでに注目を浴びていた。だが、活動は舞台のみ。テレビドラマやバラエティーに出るわけでもない。友人、知人で年に1回でもお金を払って芝居を見に行く人が何人いるか考えたら、当時の一般知名度がどうだったか想像がつくだろう。

  なぜ、社会部記者が野田秀樹を取材する事になったのか。次回は裏で暗躍した人物の話。

 

脚注
*1 キョーコマ。現在の筑波大学附属駒場高校(ツクコマ)。学力で日本のダントツ頂点に立つ国立高校。全盛期、キョーコマの東大合格率は90%を超えていた。東大合格者数で1、2位を競う私立の開成や灘ですら足元にも及ばない。現在も現役合格率が50%を超える唯一の高校。
*2 東大の1、2年生は全員、駒場教養学部にいる。文科1類は3年になると本郷の法学部に進む事が決まっている。ただし、転学、転科は可能。同様に文科2類は経済学部に進む。文科3類は2年半ば時点の成績で文学部、教育学部教養学部などの希望学科に振り分けられる。野田秀樹は法学部中退。教養学部時代、「演劇をやるのにどうして(法学部の)文科1類なんですか?」とどうでもいい事を何度も質問される事にウンザリした野田は、あるインタビューで「(文学部の)文3だとバカだと思われるからです」とシャレで答えた。文3の学生が「1浪してやっと入ったくせにふざけるな」と怒っていた。
*3 昔は学芸部と呼ぶ新聞社が多かったが、マンガ「美味しんぼ」の主人公が所属する東西新聞のモデルになった新聞社のように名称が文化部などに変わったところもある。
*4 飛ばされたなどと言ったら、朝日ジャーナルサンデー毎日に失礼だが、当時の新聞社内は、新聞本体(編集局)と雑誌や書籍を担当する出版局の間に厳然としたヒエラルキーがあった。給料も違う。

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全国紙のひとで初めて野田秀樹を紹介